《夢芝居》

 

「あやつる?」

から示されて、何となく意識を向けた歌の詩に、不思議なことが書いてある。

“男と女 あやつりつられ
細い絆の 糸引き ひかれ”


「細い絆の糸を引く。この歌で絆は「糸で引くもの」なのか」と歌詞を眺めた。

「引いたり、かけたり…あっそうか」

恋の駆け引きとは言うが、の駆け引きとは言わない。

掛けと駆けとで字は違うが、駆けは軍を進め、引きは手綱を引いて下がること。

糸をかけて引いたり引かれたりも“駆け引き”である。
 
駆け引きは操りで、そこには仕掛けがある。

だから歌では真っ先に「恋のからくり」と言っている。

 

潔い!

『夢芝居』には、たまに出る「素顔の可愛さ」以外、は出て来ない。

兎に角、

はスルーで

素晴らしい。

一緒くたにする不覚ソングとは一線を画す。

何者?

 

聴いていて、これはなんちゃって精神の見本の様な歌だと唸った。

何て言うかもう、

なんちゃってバイブル。

と言うものへの、線の引き方
との付き合い方
敢えてをする際の、楽しみ方の極意が、この歌に詰まっている。

 


理想の自分。

意中の人。

望む結果。

こうあって欲しい世界。

不覚の人は様々なものを恋うる

恋いたければ、

恋えばいい。

 


恋に「何故?」と問うことが出来る方は『恋の予感』で、さっさとそこを卒業出来るが、それが難しく、たぎる思いが抑えられないなら、無理に封じても仕方がない。

但し、それは「自分」と信じた存在が「こうあって欲しい!」と恋う、夢芝居だと、御承知の上でなさることだ。

は不覚社会でモノコトの流れる勢いを速める、促進剤の様なもの。

だが、なんちゃって精神を忘れた度を超す恋い方なら、潤うどころかえらい騒ぎになる。

全体の流れを活性化させて用水路の水をスムーズに流したいだけのはずが、勢いが良すぎるなと溢れ出ているのを覗きに行って溺れたりする


恋に溺れるのは、用水路で溺れるのと同じ。

こう書くと、恋に溺れる興奮が、多少冷めるのではないだろうか。

“化粧衣装の 花舞台”

この様に化けたり重ねたり、飾ることで出した華やかさだと分かっておかれること。

不意に現れる素顔の可愛らしさもちゃんと一緒に見ると、恋が一層楽しめる。

 


 “行く先の影は見えない”のも不思議はない。

常に日に向かいて先へ進むなら、影は後ろに寄り添うからである。

“心の鏡 のぞき のぞかれ”“対のあげはの 誘い誘われ”と、

自ら静かに磨く必要のある内なる鏡を、互いにちらちら覗き込むとか、

変容を象徴する蝶が舞う姿も、誘惑のダンスに変わるとか、

 


変てこな様子が目白押し。

パーフェクトにトンチキさを表現している。

とは不覚の目隠しをしたまま、それが叶うか叶わないかの瀬戸際に立って、生きてる感覚を味わうもの。

“心はらはら 舞う夢芝居”

「なりたいな・なれるかな」と揺れる、心のハラハラ感はであり、芝居なのだ。

 


夢であり芝居であると分かりながら毎瞬、惰性ではなく全力で味わい続けたなら、「何を叶えても似た場面の繰り返しだ」と気づくだろう。

ハラハラする興奮に酔って中毒になりさえしなければ。

この「れば」で、中立のムズさがお分かり頂けるだろうが、それでも恋を望むなら毎瞬全力でどうぞと言うこと。

なんちゃってとは惰性で適当に、と言うことではない。

「全てはお芝居と分かっておく」と言うことであり、分かった上で全力を尽くすことは出来る。

 


「初心忘るべからず」

「今を生きよ」

こうしたフレーズと意味を同じくしつつ、

“けいこ不足を 幕は待たない”

は、待ったなしの躍動感に溢れている。

不覚の人は興奮と幸福の区別がつかないが、興奮中毒は惰性であり、未知ではない。

慣れた甘い、初々しさのないに、何の歓びがあるだろうか。

 

恋はいつでも 初舞台。

(2019/5/20)