《降りて丁度》
何故、敬意か。
前回記事の最後に、この様に書かせて頂いた。
敬う動きには、相手の方を自らより高い位置に置く気配がある。
今を敬って、自身より高い位置におけば、離して距離を作ることにならないか。
そんな心配には、勿論及ばない。
何故なら不覚状態だと、そもそも分割意識の立場が最上に置かれているからだ。
今この瞬間があることや、御神体が常に共に在ること、物理次元と言うフィールドがあること。
そうしたことは二の次となり、分割意識の「我ここに在り!」だけが、突出している。
この“頭が高い”状態は、敬意を払うと言った首を垂れる動きで、丁度平らにならされる。
つまりは降りて丁度なのだ。
悪戯な敬意によって今が持ち上げられやしないかと言う発想は、全体一つが当たり前になってしまえば起きようもない。
覚めぬままの分割意識にしか行えない、杞憂とも言える。
ずっと意識が引っ張るやり方で、沢山の不覚体験を行ってきた人類。
そこから、御神体と和合して歩む体験へと、内容が変わるのが変容の時代。
悪いものが良くなるのではなく。
劣ったものが優れるのではなく。
シンプルに新しくなる。
そうして元々の本道が、開かれて行くのがこの時代である。
「頭が高い、ひかえおろう」
この台詞は偉い人の存在をアピールしている様でいて、奥に別の意味がある。
エゴ騒ぎに興じている分割意識達に、降りてみないと全体一つは分かり得ないよと示す言葉でもあるのだ。