《降りて丁度》

 

何故、敬意か。

 

前回記事の最後に、この様に書かせて頂いた

 

敬う動きには、相手の方を自らより高い位置に置く気配がある。

 

今を敬って、自身より高い位置におけば、離して距離を作ることにならないか。

 

 

そんな心配には、勿論及ばない

 

何故なら不覚状態だと、そもそも分割意識の立場が最上に置かれているからだ。

 

この瞬間があることや、御神体が常に共に在ること物理次元と言うフィールドがあること

 

そうしたことは二の次となり、分割意識「我ここに在り!」だけが、突出している。

 

 

この“頭が高い”状態は、敬意を払うと言った首を垂れる動きで、丁度平らにならされる

 

つまりは降りて丁度なのだ。

 

悪戯な敬意によって持ち上げられやしないかと言う発想は、全体一つが当たり前になってしまえば起きようもない

 

覚めぬままの分割意識にしか行えない、杞憂とも言える。

 

 

ずっと意識が引っ張るやり方で、沢山の不覚体験を行ってきた人類。

 

そこから、御神体して歩む体験へと、内容が変わるのが変容の時代

 

悪いもの良くなるのではなく。

 

劣ったもの優れるのではなく。

 

シンプルに新しくなる。

 

 

そうして元々の本道が、開かれて行くのがこの時代である。

 

「頭が高い、ひかえおろう」

 

この台詞は偉い人の存在をアピールしている様でいて、奥に別の意味がある。

 

エゴ騒ぎに興じている分割意識達に、降りてみないと全体一つは分かり得ないよ示す言葉でもあるのだ。

 

降りて立つ、新しき地平。

(2026/4/23)