《緩む我》
我の枠は何を生む?
前回記事の終わりに、この様に書かせて頂いた。
結論から言えば我の枠は何かを生んだりしない。するのは作ることである。
作るものは、一つではない。
以前にも申し上げた通り、我とは「割れ」。
一なる虚空から分割された、割れて分かれたものなのだ。
わざわざやってみたくて分かれて、割れているからこそ各自の違いを味わうことが出来る。
個々人はどれも二つと同じもののない存在。
でありながら、似た思考や行動のプログラムを採用して、部分的に内容が被ることも珍しくない。
その被り方は随分煮詰まって来ている。
被りに被ったことで「何だみんな一緒じゃないか」と分かったりしないのは、被っている様子を俯瞰で観ることをしていないから。
煮詰まりの渦中にあれば、被っている同士で潰し合いの椅子取りゲームをしたり、手を組んで反対派と戦ったりと、エゴならではの遊びに心が忙しくなる。
そしてそれを好む人は多い。
多いのにも理由があり、変容の時代には意味をなさなくなる遊び道具を使い尽くそうと、派手な動きに興じているのだ。
在庫一掃セールである。
我の枠に話を戻すと、「これが自分」と言う感覚をリアルに楽しむことを、この枠組みは可能にして来た。
順調にその違いに入れ込み、「割れ」の元にある「割れてない全て」の存在は綺麗に忘れられる。
そして我が身を起点に、そこに関わる様々な「我」を大事にすると言う、優先の感覚が起きた。
我が故郷。我が師。我が子。我が校。我が社。我が国。
我の枠は、分割の状態を作り、帰属意識を作り、距離と言う横の差異、そして優劣と言う縦の差異を作る。
どれも身につけているだけなのだが、マイ(私の、我が)と言う感覚を、覚めぬまま中立に捉えることは難しい。
だが、敢えてそれをしてみようとする時。
「我がって言うけどさ…あれ?」と気づき始める時。
少しずつ、枠に緩みが出て来る。
緩み出すことに怯えることも、喜ぶこともあるだろう。
どんな反応をしながらでも、緩めることを止めない者に、やわらかな全体感覚は浸透して行く。
すると、ペースは?
(2025/9/8)
