《主と全》
虚空から人型生命体に向けたクイズについて、カンニングが出来ないと前回申し上げた。
カンニング出来ないだけでなく、このクイズは外側に正解が張り出される訳でもない。
評価や順位をつけた成績が発表される訳でもない。
だから虚空からの問いかけは、エゴを使って遊ぶことが出来ない。
罰と修行を好むプログラムを使って自分好みの意訳を施し、
「より良き世界、あるべき世界に導くためには貴方は、どう正しく振る舞いますか?」
等の珍問に置き換える人もいる。
だが虚空は誰のことも諭していないし、叱っていないし、嘆いてもいない。
現れた数多の体験を、天意で観察しているだけだ。
いつか訪れる、あるべき世界が到来するまで人型生命体の成長を待ってくれている訳ではない。
虚空に、理想は特にない。
虚空のままでは味わえない、傾いたものを見てみたくて、敢えてやってみているだけ。
虚空にとっては理想もエゴを用いた作品の一つである。
怒りも、悲しみも、優越も、落胆も、高揚も、奮起も、妥協も、挙げてみればきりがないが、全て作品。
人型生命体が自分を起点とする時に主観が生まれ、どの作品も主観の影響を免れない。
全体一つの感覚を開かぬままで主観頼みに動き回ることで、主と主のぶつかり合いが頻発して、不覚社会の賑やかさを作っている。
虚空を神格化したがる人は虚空を主、自分を含めた人間やその他を従者と見なしたりするが、虚空は自らを主としてはいない。
全には主も従もないからだ。
誰かが誰かの作品に、「何でこんなもの描くんだ」「こんな色塗るな」と言っていても。
「こっちの人の作品の方が優れているな」と、採点する人々が居ても。
誰が誰の作品をどう扱っても。
虚空は只それを、天意で観ているのだ。