《これさえあれば?》
前回記事の終わりにて「取って、戻せるもの?」と申し上げた。
被害者であることを、積極的に主張する時、人は何を求めているのか。
害を被ったとされる時に奪われたものを、取り返そうとしているのだろうか。
ポカリと殴られて出来たタンコブが、引っ込んだ後にも消えないもの。
それは心につけられたと当人が感じて、思い出すたびに痛む“傷”かも知れない。
その出来事によって恥をかかされたとして、“傷”ついた外聞かも知れない。
こうした傷には「完治しました」と、病院の診断書が出る訳ではない。
それでも、被害者であると立場がはっきりすることによって、傷が癒えた感じが早まったり強まったりするのかも知れない。
自己治癒を目的にすること以外にも、被害者であると主張することでもたらされる恩恵はあるだろうか。
そこに意識を向けてみて、実に単純で強い欲求が、人々の意識に存在することに気づいた。
被害者であることを主張する時、当人の意識内での立場は加害者であることから遠くなる。
当人の意識と限定したのは当人以外の外野にとっては遠くならないこともあるからだ。
「いやいや、あなただって」
「いえいえ、あなたこそ」
の声が上がって、加害者のレッテルをペタリと貼られることもある。
それでも当人にとって、そして身内や擁護者、賛同者など、当人が被害者であった方がしっくり来ると言う人々にとっては、自説を強化するのに有効な方法となる。
「強力だし、しかもこれさえあれば」
と、感心した。
被害者意識さえあれば、ずっと至福から遠く在れる。
一瞬の幸福感なら、手に入った様な気持ちにはなれるかも知れない。
だが福に至ることなく、覚めることなく居られるのだ。
凄いことではないだろうか。