《被の求め》
ご承知の通り、これまで人類が行って来た様々なチャレンジは、概ね不覚状態だからこそ出来たものである。
それはそれで役割があった。
そして2026時点でも、古い習慣の名残へと変わりながら続いている。
矛盾に満ちた賑やかな活動は覚めぬ人々に任せて、こちらはこちらで役割を果たしているが、先日から注目しているのが
被害者意識
である。
何かと取り沙汰され問題視もされつつ、「だってしょうがないじゃん」「人間だもの」と半ば逆ギレを含めて、執着されてもいる。
だが、被害者意識を祝福しようとする動きは全く見かけない。
だから注目している。
例えば、AさんがBさんの頭をポカリと殴る。
すると大抵の場合、Aさんが加害者でBさんが被害者と言うことになる。
だがAさんが「そうです、私が加害者です」とならずに、
「そもそもAさんが酷いことを言って私を傷つけたせいでこうなった」
等、火に油を注ぐ意見が加わったりもする。
そうして被害と加害が一体誰の何処にあるのかを探って、飽きるまで盛り上がり続けることを人間は割と好む。
被害者であることを、積極的に主張する時、人はそこに何を求めているのだろうか。
意識を向けてみて気づいたことを、次回記事にて書かせて頂く。