《贄の限界》
全体一つから、離れるものとは。
前回記事にて書かせて頂いたが、申し上げるまでもなく、それは意識のことである。
途切れぬ世界の中に在って、意識はそこに重要度の濃淡をつける。
価値の高低差をつけると言い換えることも出来る。
更に好きか嫌いかで色分けをする。
世界に色を塗るようでいて、自身の視界に着色している。
それは色眼鏡と表現されたりもする。
色付けされた視界で、人は闘って何かを得ようとしたり、逆に奪われまいとする。
意識内の闘いを繰り返し、こうしてどんどん全体一つから離れて行く。
だがご承知の通り、人工的な着彩などなくとも、世界はそのままで美しいのだ。
色塗っちゃいかんと言う訳ではない。
こんな離れ業が可能だったのは、意識が不覚状態であるからだと分かれば、旧い体験にも感謝出来る。
色を塗ることも、獲物を狙って武器を遠くに投げることも、分割意識が全一に帰還するまでの間に、それはそれでやってみたかったことなのだ。
ホコとヤリはどちらも、戦闘だけでなく古くから儀式にも使われて来た。
天沼矛の様に、ホコが神話の中に登場することは割と知られている。
ヤリにもそうした側面があるのだろうかと調べたら、エエペライと言うアイヌの儀式用槍があることを知った。
これは狩猟には使われず竣工式や、イオマンテと呼ばれる神送りの儀式に用いられるそうだ。
一方、人間同士の戦闘を模して行い、それにヤリを使う儀式も海外には存在する。
インドネシアのスンバ島で開かれる「パソラ」と呼ばれる祭りでは、馬に乗った男たちが、長い木槍を激しく投げつけ合う。
この儀式中に発生した怪我や死は神罰とされ、流された血はその年の豊作を告げるものとなるらしい。
生贄として人命を捧げる発想は古くからある。
日本でもつい先日、裸祭りで三人重体と言うニュースを見かけたが、事故風味にしていても、その底流には生贄発想が残っている様に感じる。
柱と一緒に高所から滑り降りたり、人力で引く車で荒々しく走ったりと、人間が作ってきた祭には心身の危機が生じるものがある。
新しい時代にこの辺りがどう変化して行くのかも、興味深い観察ポイントとなる。
神で身を蔑ろには出来ぬ。
(2026/2/26)
2月のふろくはお休みし、来月以降にご用意します。
