《格子で人は》
「自分を否定された」と言う奇妙な感覚を、人間はどうして抱くことが出来るのか。
前回記事にて申し上げた様に、「自分とは何か」について、本人すら完全には理解しきれない。
その不明瞭なものを、ありありと確かに、否定されたと感じるには、ちょっと固めておくことが必要なのだ。
そこで人間が使う便利なものがある。
それが人格。
自分と人格を一緒くたにすることで、「否定される」と言う奇妙な感覚を抱ける様にしている。
ひと手間かけて、そうしたことをする理由は、一体どこにあるのだろうか。とても興味深い。
御承知の通り、人格イコール性格とはならない。
性格は人格の一部であり、他には個性であったり、行動と思考のパターンも含まれるそうだ。
更には出来事に対して抱く感情や、様々なものを比較することで生まれる価値観、そこから定まる信条なども、人格のラインナップに入って来ると言う。
人格は、人が成長する過程で、遺伝的要因と環境的要因を併せ、そこに経験を加えて形成される。
不覚の分割意識がそれぞれ「自分」の人格に強い思い入れを持っていることに気づいて、次いでハッとなった。
「何なら人格を自分と思っているのでは?」
当人にも分かり切れない、丸ごと否定するのが本来不可能な「自分さん」を「人格さん」に変えてみると、あら不思議。
「人格を否定される」と言う、何だかあり得る感じの表現になる。
しかしここまでご覧頂いた通り、人格の大部分は後付けで、その人の本質とも異なっている。
頭をポカリとやって記憶を何もかも失くした人が寝ている病室に、それまでその人を悩ませていたパワハラ上司がやって来て、
「貴様は記憶などを失くして、駄目な奴だ!」
と言った所で、返事は「ハァ、そうですか」じゃないだろうか。
全く思い出すことがなければ、知らないおじさんが怒っているだけだ。
相手との力関係や、された嫌なことを丸っと忘れたら。
会社と言う限定された空間を出たら。
駄目なやつ呼ばわりも人格否定にならずに、「ハァ、そうですか」程度の出来事でしかない。
人格の枠が外れても、自分は消えない。
人格について「ちょっと覚えがありませんねぇ」となったって、病室からその人が透明になって消えたりはしない。
自分とは、人格と言う枠では測れないものなのだ。
格子で人は作られぬ。
(2026/3/16)
