鬼子(おにご)母神(ははがみ)

 

鬼子母神(きしぼじん)は、沢山の子を持つ母であったが、我が子を育てる力を得る為に、人間の子を捕らえて食べていた。


その行いを恐れ悲しむ人間達を見かねた釈迦は、鬼子母神が最も愛する末の子ピンガラを、乞食(こつじき)に用いる鉢に隠した。

子を失った鬼子母神は必死で世界を七周りする程探したが見つからず、ついに釈迦へ助けを乞う。

釈迦は「多くの子から一人を失っただけでお前はそうして嘆き悲しむが、ましてたった一人の子を失う人間の親達の悲しみや嘆きは如何ばかりか」
と説く。

 

鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人間の子を殺さぬこと。そうすれば直ぐに居なくなった子に会えるだろう」と言われる。

承諾し三宝に帰依すると、釈迦は隠していた子を返した。


その後は釈迦の教えによって五戒を守り、施食で飢えを満たして、鬼子母神は仏法の守護神となった。”

 


以前から、「鬼子母神」の名前には不思議さを感じていた。

何故、母子ではなく子母なのか。

 

意識を向けると、何とも呑気なイメージの断片が来た。


調べた所、コボちゃんとは作者の植田まさしが幼少期に呼ばれていた愛称で「末っ子、小さい子」と言う様な意味であるらしい。

お鉢に隠せる程ちっちゃな末っ子。

まさしく釈迦に隠されたピンガラだが、自らのコボちゃんを隠された鬼子母神が、居ても立ってもと世界を七周りするのには、末の子と言う「結果ポイント」無くしては、どんな生成も実現出来ないことを表している。

光は一秒に地球を七周半する程の距離を進むことが出来る。

だが、エネルギーが幾ら動こうとも、出る「末」が無ければ何も具現化しない。

 


釈迦が鉢と言う空間に隠したのは、流動するエネルギー具現化ポイントだったとも言える。

それにしても確かに「鬼神の子を育む為に人間の子を糧にする」とは、変な動きだ。

何故なら、万物は全母のであり、その本質に優劣は無い


そのことを当たり前に分かって居るのが真の神である。

なので「神優先、人後回し」等と、エネルギーの分配を勝手に定める神は本来なら居ない。
それは偽神であり、自らの全母性を見失った、迷子のエネルギー体だ。

だから、母であるより先に子の要素が来てしまい、ひっくり返った「子母」神となったのではないだろうか。

 

おっかないバージョンの鬼子母神。

 

鬼子母神肥大したエゴの象徴、我田引水の見本の様な存在とも言える。

それが釈迦の教えによって、人の子を盗み喰らう鬼神から一転、何と食べてた対象の子供と安産、そして盗難除けの守り神となる。
 
子授け、安産、子育て、何でも来いの人気神
今でも崇敬は続いている。

 


人間でも「若い頃はヤンチャして」な逸話を持つ人物がウケる場所が社会の一部にそれなり存在する様に、神にもこうした「悪神転じて善神に」ストーリーがあるとそれを更正させた釈迦の力量の宣伝にもなり、何やかんやで説得力がアップする。

そんな元ヤンめいた鬼子母神だが、そもそもは夜叉と呼ばれるインド神話の鬼神。


サンスクリット語での名ハーリーティーを転じて、訶梨帝母(かりていも)とも呼ばれる。

 
悪鬼扱いされる前は、精霊や植物神としての性格が強い自然神であり、夫のパーンチカとセットで夫婦和合からの生成を示し、豊饒を司る女神として人々に認識されていた。

 

見るからセクシーカップルですし。
 
それが教化する側の都合で一旦ダークサイドに追いやられ、いわく付きリフォーム物件として仏教に取り入れられて「護法善神」となる。

手強い悪鬼を味方に転じ、ちゃっかりセコム化するやり方は仏教あるあるの一つ。

ハーリーティーは訶梨帝母、パーンチカは半支迦薬叉王と、夜露死苦みたいな変換がされる辺り、やはり仏教文化とヤンキー文化には共通点が多いのかも知れない。

 


鬼子母神が手に持っている果物は吉祥果と呼ばれ、今じゃすっかりザクロのイメージが定着しているが、これも面白いメッセージを含んでいる。

の字は「木に沢山の実が成る状態」をあらわしたもの。
ザクロもそうである。

 


そして果実の皮を剥いてみると、中には更に粒がぎっしり

 


木から枝分かれした結果のひとつひとつが、更に数多くの発展の素を宿していること。


無限の繁栄が広がる様が良く表われた姿と言える。

さらに、別の角度から観ると、

 

「子と母がひっくり返ったままの「子母状態」では、全体が統合されず内幕は「粒いっぱい」のままである」

自分の粒だけ大事にするの図。

このことも示される。

幾つものメッセージが織り交ぜられていて、「真っ赤な果汁が血に似て、食べると人を喰った様に見えるから」と言うのも確かにあるだろうが、吉祥果にザクロをあてたセンスは素晴らしい。


我田引水の見本みたいな荒くれ鬼が、森羅万象と粒子の関係を解き明かす深いメッセージを送って来る。


その彼女も通過点にして突き詰めれば、

 

「不覚的栄華には限界があり、真の繁栄には個(=子)の母性を超える母性、全母性の復権が不可欠」

 

と言う真実に行き当たる。

全母性の現われとして分かり易い存在が、崑崙山に住む西王母


西王母を象徴する果実はご存知の通り、である。

吉祥果も元は何の果実か記されておらず、おそらくはであったろう。

 



それがザクロに変換されることで、万物の粒子としての側面がより分かり易く現われ出た。

豊饒の女神を、全母から離れた鬼子に変えたのも、


全一の果実である桃を、粒の集合であるザクロに変えたのも、

変容の時代を迎えるまでの道すがらに発生した、人類の可愛らしいハイハイの記録なのである。

もう立って、歩ける。

(2017/10/19)