《雪の女王 その3》

 

雪の女王とは『理想』の象徴である、と先週記事にて申し上げた。

 

カイとガーダについては人型生命体の中の男性性女性性であることを超えて、更に深い意味で象徴するものを知ることが出来た。

 

男性性女性性則ち分割意識御神体、となりそうなものだがそうであれば分割意識御神体迎えに来てくれるの待ち、と言うことになる。

 

 

出来ればそうしたい甘ったれた分割意識も、中にはあるかも知れないが、暇を潰して進める本道などない

 

カイもガーダも、御神体の力を借りつつ、分割意識が起こす力である。それは、

 

カイ=想像(する力)

 

ガーダ =実行(する力)

 

想像理想魅せられて、その後を追いかける。

 

それは大きなソリに小さなソリを連結させて氷上を滑る様に楽々と、理想の膝元までは容易く想像を運ぶ

 

  

想像理想による支配と管理の下に、望むものを作り出そうとあれこれイメージを組み立てる

 

だがそれでは、あくまでもイメージだけを塗り替えすげ替えることに留まる。

 

片や実行は一足一足、外の温度や感触を確かめながら進む

 

図らずもの旅立ちでは途中まで船が運んだが、想像理想の膝元まで終始ソリで軽々と氷を滑り天を駆けるのと違い、実行は、時には裸足で雪原を行く冷たさ痛みを味わうこともある。

  

小さな女の子の歩みの様に、ゆっくりと少しずつの進み方だったりもする。

 

  

想像理想魅せられた様に、実行にも誘惑の手は伸びる。

 

安楽や快適さで誘い込み、それと引き換えに支配しようとする者の手に包み込まれ、ぼんやりと煙に巻かれて時を過ごしたりすることもある。

 

それでも実行は諦めない。

 

薔薇に象徴される「隠されていた大切なこと」を地中から取り戻し、ぱっと見は綺麗であっても聴いてみたら無意味なお喋りしかしていないものに囲まれた場所から、身一つで飛び出すことも出来る。

 

 

実行を置き去りにしたまま一人遊びに夢中想像を恨みもせず、懸命に追いつこうと努力する。

 

想像理想支配下で、与えられた課題に雁字搦めになってどんどん凍りついて行くのと対照的である。

 

ガーダと言う実行は、

 

甘い誘いをものともせず、広い世界に裸足出て行く

 

鳥でも人でも獣でも、協力者について査定選定しない

 

 

相手が王族でも山賊でも、態度が変わらない

 

寒さや冷たさに耐えた後、やっと親切な理解者から得た協力が、次に命の危機に晒される理由になっても絶望しない。

 

これまでの道のりについて聞かれればその度に、飾らず駆け引きせずに正直説明出来る。

 

その説明の中に要求を忍ばせない

 

人が何かを実行するにあたり、彼女から学べることは沢山ある。

 

 

作中、ガーダは三度「裸足」になる。

 

大事な赤い靴を川に差し出した時。

 

魔法使いの呪縛を解いて花園から外に駆け出した時。

 

慌てん坊トナカイのうっかりでブーツを履かないまま運ばれて雪原に放り出された時。

 

いずれの場でも、他に誰もなく彼女ひとり。

 

実行想像に追いつくまでの間、幾度も「身一つで後ろ盾なく一歩がとても冷たい状態」になるかも知れないことを、この三度は示している。

 

 

それでも、ガーダは懸命進んでいる

 

実行にはそうした健気さがある。

 

健気なものは、自らを健気であると意識していない

 

 

だから、健気風を装った可哀想がりとは簡単に見分けがつく。

 

覚めていれば。

 

覚めた意識から、不覚社会お約束条項に紐づいた同情が、全て消え去るのはその為である。

 

可哀想がり反応しない一方で、全力の実行が発揮する自然な健気さには、しみじみと感じ入り感謝湧く

 

全力の実行は、孤独危険回避しない

 

 

健気に、懸命に、どんなことが起きようともその中にあって出来ることをし続ける

 

世の中には金で買えるスリル恐怖を含んだ仮想娯楽がごまんとあるが、予定調和に満ちた残虐ごっこより、地道な実行一歩の方が余程勇気の要ることではないだろうか。

 

この物語を幾度も通して読む間に、ある問いが浮かんだ。

 

女王は、「永遠」の文字を作ることが出来るのだろうか?

 

 

己が出来もしないことを人にせいと言うのは間抜けなことだが、作れないだろう。

 

「理想」とは、不覚の意識上に掲げられた永遠に到達しない状態だからである。

 

理想に憧れてちょっと速度のおこぼれを貰おうとする想像を捕まえては、想像力のみでは解けない問いを与える。

 

問いを前に力尽きて、凍って息絶える想像もあるだろう。

 

そして又、理想別の想像を捕まえる。

 

 

悪意からではない、善意からでもない。

 

それが理想の役割だからである。

 

実行想像追いつくかどうか、それは理想どうにか出来るものではないし、する必要もないことなのだ。

 

想像自由を奪っていることは、理想も知っている。

 

だから、「永遠」を完成させれば自由と世界とスケートをくれてやると、変てこな三点セットの中に組み入れている。

 

  

スケートで滑れる世界とは、凍ったままの世界と言うことだろうか?

 

そんな限定的な自由は、修学旅行の自由時間みたいな「部分的拘束解除」であり、自らに全ての由がある状態ではない。

 

凍りついた領域を脱して、裸足で歩ける場所まで帰れる方法としてのスケート支給なら、くれる自由は一応本物の自由つもりなのかも知れない。

 

まぁ自由って、理想から頂戴するものなんかじゃ全くないが。

 

 

どうも理想の周りには、「理想にとっては当たり前」の実際全然当たり前じゃない情報がごろごろ転がっていて歩きにくい。

 

道にはみ出してまつりを開催しているみたいな感じ。

 

華麗で凝った作りでも、歩くには適さない

 

それら作りものを統べる理想そのものも、人型生命体の分割意識達がエゴと共に作り上げた“人工”イメージ装置である。

 

ソリでの失踪前、二人で大切に育てていたバラを折られ打ち捨てられた時、ガーダの訴えカイには届かなかった

 

 

それは様々な体験をするの、ガーダの言葉であったからだ。

 

幾多の体験により様々な存在と出会い、彼らを受け容れ、彼らに受け容れられて大きく成長した実行の、言葉を超えた真の

 

自らに酔うことなく、悲しみに酔うことなく、只、により流した熱い涙。

 

 

 

想像正気を取り戻させるのは、体験を重ねて辿り着いた実行の強さだ。

 

再会した時にガーダは「小さなカイ」と呼んでいる。

 

正気に返ったカイも、「小さなガーダ」と呼んでいる。

 

そして手に手を取って帰った後、共に「すっかり大人になっている」ことに気がついている

 

 

 

冒険を通して起きたガーダの成長は確かに大きなものだった。

 

それをも遥かに超える真の大人となる変容は、想像実行が揃った後に起こる。

 

想像創造となり、実行実効となるのだ。

 

花開く愛に、香る天意。

(2021/2/4)

 

2月のふろく《雪溶かす愛》

 

今月は、先週のふろくと対になる、理想を溶かす行動を発揮するふろくをご用意しました。

 

 

 

白い紙を用意し、《雪の理想鏡》に書かれた理想が、「果たして全体の弥栄にどれ程通じるものなのか」天意からの愛に照らしてご覧頂き、それによって起きた気づきを、有るだけ紙に書き出して下さい。

 

この理想では成し得ないものは何か。

 

この理想が取りこぼしてしまう「欠け」 は何処か。

 

理想の限界をじっくり味わったら、今度はその理想に合わせるなら「おそらくしないだろう」ことをイメージしてみて下さい。

 

恰好悪いのが駄目なのか。

 

不道徳なのが駄目なのか。

 

貧しいのが駄目なのか。

 

だらしないのが駄目なのか。

 

冷たいのが駄目なのか。

 

愚かなのが駄目なのか。

 

無能なのが駄目なのか。

 

理想の反対をまとめあげて短い文に結晶化し、それに天意からの愛を注いで下さい。

 

短文に収まったこれまで祝えなかったものと、愛を注いで出て来る祝福の言葉を《雪溶かす愛》の真ん中に書き入れて下さい。

 

仕上がりを観察し、愛に満ちる清々しい意識となりましたら、祝福を込めての行動を一つ、何でも結構です。

 

その日の内に、なさって下さい。

 

行動と言う形で祝福をお示し下さい。

 

その歓びは、意識に浸透し無限なる弥栄の運びを促進します。