《耳なし芳一》 

 

 日差しに夏を感じることも増えた今日この頃。お出かけ前に日焼け止めを塗っていて、ふと耳なし芳一を思い出した。

 

 まあ、あんなシビアな状況じゃないにせよ、

 

全体的にムラなくやんなきゃね

 という点で共通している。

 

 この話のあれやこれやに思いを馳せていて、多くのことに気づかされた。

 

 琵琶を弾くのがとても上手く、中でも平家物語を大変に得意とした盲目の法師芳一が、正体の分からない高貴な客の為に、七日七晩の演奏を頼まれ夜な夜な出かけて行く所から物語は始まる。

 

 この客達は平家の亡霊であり、芳一が暮らす寺の住職がそれを知って、彼を守る為に芳一の全身に般若心経を写し書きして亡霊から見えなくするという策を講じる。

 結果、写経した小僧のミステイクにより芳一は亡霊側に見えちゃった両耳だけ持ってかれるという顛末なのだが、これは住職がある程度の呪術に長けていたことをあらわしている。

 

 坊さんの呪術師的な側面が垣間見えるエピソード。でもスタッフに申し送りが出来ていなかった為にこんな騒ぎが起きたとすれば徹底したシステマティックな機構を仏教界は持っていないのだろうか、なんて話になりそうだが、この昔話、思いもよらぬ虚空からのメッセージを含んでいる。

 

 芳一を心配した住職達は、その表面に対応策を講じることで危険を回避しようとした。そして塗り残した。

 命がかかっているかも知れないとくればそれなり真剣だったはずである。やっつけ仕事ではないだろう。だが、結果として塗り残した。いや、塗り残った。

 

 これはつまり、人間意識はモノコトに対して常に見える部分から働きかけるが外側からあつらえた聖域はどこかに必ず綻びが生じるということを表わしている。

 

 水を縛れる鎖はないとお伝えしたが、水になるのは内も外もなく存在まとめて一気にである。

 敢えてどこかにポイントを置くとすればそれは存在の中心である虚空からであり、表層のどこかからではない。

 

 小僧が芳一の何処から書き始めたかは知らないが、どっかしらの表層部分から始めたものはどうしたって完全には成り得ない、このことが耳をなくすエピソードとして現われている。

 

 そしてなくしたのが耳であることも意味がある。

 

 眼球持ってかれないように元々見えない目を瞼で更に封じ、真っ暗闇の中で動くこともできず、声も出せず、事がどのように運ぶか知る術は聴覚しかない。

 この芳一の「上手く行くかどうか」への注力が、不安好奇心の湧き上がり空間に耳だけを発生させることに繋がったようにも思う。

 

 全幅の信頼を置いていれば、耳も揃って朝を迎えられたかも知れない。

 だが、人間意識が講じた策に全幅の信頼や安心をすることは無理だ。出来るのはせいぜい「目をつむる」位である。

 

 何故なら本質的に我々は、人間ではないから

 

 どうしたってその人間ではない部分が不納得のまま、事態にエラー音を発生させる。

 

 しかし七日七晩とは奥深い表現である。七かけ七で四十九。

 

 四十九日の法要もままならなかった平家の亡霊はそりゃあぱっと見は荒れてもいるだろうが、「鬼神も泣かしむる」という真心込めた琵琶の音で涙とともに完全に昇華させれば、ちゃんと成仏したと思う。

 

 本当は亡霊も、そうしたかったのではないだろうか。

 その亡霊に対して、芳一に書かれた般若心経は真心があっただろうか。

 

 亡霊と芳一の成仏したい・させたい動きを、小手先の般若心経(霊への不信と生存への執着)が押しとどめてしまったのなら罪な話だ。それも一つの経験ではあるが。

 

 この一件を機に、「平家の亡霊に耳持ってかれるくらい琵琶上手い」という逸話が評判を呼び、実際の腕もあって芳一は琵琶法師として名声を手にし、何不自由ない生涯を送ったとされる。グッドやバッドで判じれない、それらを超えたエンディングである。

 

  ドラえもんばりに耳を失って部分で聞くことをやめた為、そうした生涯がやって来たとも言えるし、道真の句に関連してお伝えした梅の花のように、「芳」しく香る全「一」に則した存在として、大切な真理を身を以て記した報酬とも言える。

 

 そしてその真理を知ると言う恩寵を、今この時代に我々が受けている。

 

 様々な人物の様々なエピソードが進化に寄与していることに感謝して、金輪際で生きることを改めて誓わせてくれる奥深い物語の一つである。

 

殿堂入りってこういうことか。

(2016/06/02)