《置いてけ堀》

 

このお掘、2017で言う墨田区錦糸町の辺りにあったと伝られる、実在した堀である。
 
江戸の頃、錦糸町を含む墨田区界隈は本所(ほんじょ)つまり(もと)(ところ)と言う、大変グッドセンスな名称で親しまれていた。
「本所七不思議」と題して、当時のみんなが盛んに「本所、本所」と言いたくなるのも頷ける。
 
と言っても開国以降、なし崩し的に江戸に紛れたが、リアルタイムの江戸っ子にとって「江戸は江戸、本所はその外であった。
狐狸(こり)が棲む僻地の扱い。
 
でも本所って言いたい。


 江戸っ子が全一感覚に富んでいれば、本所を介して変容の時代に到達するのも速かったかも知れないがそうはならず、結局お公家さんと並んで、「突出した気位の不自然さ」を宇宙に記録するポイントであるに留まった。
 
それはそれで、江戸と言う時代が持つ役割なのだろう。
 
お堀に話を戻す。
 
予定調和を求める一方で、不覚者は「不思議」なものや「おっかない」ものに実に弱い。
現代もそうであるし、江戸も同じ。

 


 『置いてけ堀』でも「不思議」「おっかない」が程よく混ぜられて、聴き手に振る舞われている。
 
ある日ある時、水路の多い本所の、その中のある堀で魚釣りをしていた男が居た。
面白い様に良く釣れたことに大変喜び、日も暮れて、さあ帰ろうとした時。
 
「置いてけぇ」
 
と声がする。
辺りは薄暗く、人気もない。
 
「置いてけぇ」


 とまた声がした。
声の出所が、さっきまで糸を垂れていた堀の中であることに気がついた男は肝をつぶす。
 
慌ててその場を逃げ出し、持って帰った魚籠を覗くと、そこには何も入っていなかった
 
これだけ。
生まれたての『置いてけ堀』は、現代に比べると大分「優しいお味」
  
微風でもゾクッと来る程、闇が濃い環境だったからだろうか。
 
不覚の勝手で、ビッグサイズの物置役を闇が背負わされていた。
夜半のお堀端で、水辺から伸びた草がザワザワ…なだけで「キャ〜!」な空気。

 


 特に羨ましくはないが、それはそれで面白かったんじゃなかろうか。
 
このお話には後から、男が町人だったとか、侍だったとか、魚籠を放り出して逃げて後から取りに行ったら空になってたとか、放り出して逃げた者は助かったが魚籠を離さなかった者は水に引きずり込まれて殺されたとか、さんざっぱら尾ひれはひれがついている。
 
無視すると金縛りにあうとか、原因も河童とかとか追いはぎとか。
 


散らかり過ぎて、訳が分からない。
分かるのはせいぜい、江戸の不覚者も話を盛るのが大好きだと言うこと位である。
 
乗っかってか、たまたまなのか、千住や川越にも良く似た話が伝わる「置いてけ堀」がある。
丁度3つなので、もうどこも参入して来なければ「日本三大置いてけ堀」が完成する。
 
堀から声がしたことより、魚が消え失せたことより、この話に関して不思議なことがある。


 何故この『置いてけ堀』が、「置き去り」を意味する「置いてけぼり」の語源とされているのだろう。

 


だって、おかしな話なのである。
 
置いてけぼりを食う、と言うのは「置いてけぼり」な事態になること。
何処にも連れられずに、その場に居残ること。
 
だが、当の釣り人は置いてく側
 
持ってったにしろ置いてったにしろ、魚は消えて、こっちも置いてかれてない。
 
堀からした声が置いてけぼりを食ったのだろうか?であれば言うのは、
 
「連れてけぇ」

 
な、はず。
「置いてけぇ」で置いてったのなら、堀的には願ったり叶ったりでハッピーエンドとなる。
 
尾ひれ話の一つの、魚を離さなかった強欲者も、水中に引き込まれて殺されたのなら、それは「連れてかれ堀」なんじゃないだろうか。
 
「…一体何が、置いてきぼり?」

 

と、首をひねって、ふと気づいた。
 
大した釣果(ちょうか)を素直に歓ぶだけでなく、内心で「取り過ぎの不釣り合い」を感じながら、それを誤摩化して持ち去ろうとした
 
その“場の歪み”とでも言える気の乱れ「置いてけぇ」の声になって反響した。
 
空間にはなった気まずさが、水辺の静けさと薄暗がりの恐怖感で増幅して、怪異にまでなる。
 


種明かしすれば他愛もないが、当人には大問題。
慌てふためき、何とかしようと必死で藻掻く。
 
そうやって自意識の混乱を空間に放ち、不覚のダンスをエゴと共に踊り続ける時、内省は止み、進化も止まる。
 
ゾクッとして、興奮して、散々暴れてから周りを見渡せば。


夕暮れのお堀端みたいに、誰も居ない。
 


「置いてけぼり」とは意識がエゴ遊びに興じて変容の機会を逸する状態のことを指している。

 

御神体は素直に成長したがるのに、分割意識がそれを拒んでいつまでも遊んでいると、幾らカミさんの付き合いが良くとも差が開く。

これが老化の衰えとなる。

 

不覚の分割意識達は、不気味役を負わせる一方で、「おかしなことをしたら正して欲しい」と、子が親に向ける様なオーダーもしていたのだ。

 

見えない領域の奥底に全母からの観察、“親の目”があるのを、実は忘れていないことが分かる。

 

 

表層はどれ程すっとぼけようと、質において全母と分神は同じものであり、自らを忘れることなど出来ない。

 

堀の中の神なる存在は、水鏡に映る自らでもある。
  
全母の存在も垣間見える、体験済記録である「置いてけ堀」

実にありがたい。
  
置いてけぼりの意味を分かった2017周りの端末達は、自ら意志すれば金輪際、置いてかれゲーム続けなくていいのだ。
 

 意識を不覚に、置いてかない。

(2017/8/7)