中々に長くなりました。

 

あいすみませんが、頃合いで切ってみたり、週末の手が空かれた折にお読みになる等、それぞれいい塩梅にされて、気楽にご覧下さい。

 

では記事へ。

 

《空間を聴く》

 

最後に引っかかっていた謎が解けた瞬間、驚きと同時に何とも言えない見事さに唸った。

これだから、人知を超えた領域の情報を受けることはやめられない。

そんな感嘆を味わわせてくれたのがこの物語。

 


岩手県の民話と伝わるが、他の地域でも類似する話が幾つも残されている。

どんなお話か、ざっとご紹介申し上げてみる。



母親と三兄弟の仲の良い家族があった。


ある時、病に臥せった母のなら梨を食べたい」の一言で、一番上の太郎がをとりに出かけることに。

山道の途中で見知らぬ老婆に「笹の葉が風に吹かれているから、笹が「行けっちゃ カサカサ」と教える方へ行きなさい」と言われる。

 


分かったと答えたのに、太郎は笹が鳴ってるのを見ただけで梨のことを思って舞い上がり助言を忘れ「行くなっちゃ」と鳴ってい

る道を通る。

その先でも、烏が巣を作りながら「行くなっちゃ トントン」、木の枝にぶら下がった瓢箪(ひょうたん)がぶつかって「行くなっちゃ カラカラ」と教え

てくれるが、太郎は全てスルー

とうとう、沼の(そば)に立つの木を見つけた。


木に登って、たわわになっているをじゃんじゃんもいでいた所、沼から出てきた主に飲み込まれてしまう

 


太郎に次いで出かけた次郎も、同じ道を辿る。

残った三郎もをとりに出かけるが、彼は二人の兄とはちょっと違った若者だった。

「ちゃんと言った通りにしなかったから、兄達は沼の主に飲まれた」と、実は山姥である老婆に教わった三郎。

それでももとりに行くし、兄達も探すときっぱりした態度。


そして丸ごとアドバイスを了解した様子の三郎に山姥も感心。

 


もしもの時にはこれを使えと、をひと振り三郎に授ける。

三郎は、笹・烏・瓢箪のメッセージもちゃんと受け取り、「GO!」が出たルートでの木に向かう。

途中で川から流れてきた、綺麗な色をして縁の欠けた椀を見つけ、これも持って行く。

素直に到着した三郎に、実をもがれるの木まで「こっちから登って」と方角をアドバイス。


これも三郎はちゃんと聴いたが、降りる時にうっかり足を滑らせて水に影が映り、沼の主に見つかる。

 


沼から出て来た主にも三郎は慌てず騒がず、山姥から貰ったで退治。


主の腹から兄達を助け出し、欠けた椀で沼の水を飲ませると、兄達は復活

持って帰ったを食べた母も復活

みんな元気いっぱいで幸せに暮らしましたとさ。

 


こんなお話。
太郎も次郎も病の母の為にをとりに行く、世間で言う孝行息子

但し、彼らの親切対応敬愛は、身内に限ってである。

見知った大好きなお母さんの頼みは大事で聴けても、見知らぬお婆さんの助言は小事でまともに聴くことが出来ない。

 


末っ子の三郎だけが、自分に近い遠い重要大したことないか等の、エゴを通した判別をしなかった。


平等に、素直に、丸ごと聴く。

ここに大きな違いがある。

 


笹・烏・瓢箪、どれも人から見れば「語らぬ」もの達であるが、三郎は彼らの声をちゃんと聴き、しかも感謝をする。

太郎も聞くには聞けたが、笹が教えてくれたことに対する感謝はなく、道も違う方を進んだ。

3つの中でも笹が特に重要で、左右にブレずに真ん中の道、中道の笹「行け」と言っている。

ブレた左右もカサカサとは鳴っている。

 


意識の中に個の都合での「こうあって欲しい返事」が残っていると、あら不思議。


「行くなっちゃ」が、「行…け…(く、なっちゃ)みたいな歪んだ聴こえ方をする。

人は聴きたいものを聴く。

面白いことをから教わった。

 

笹は(ささ)、烏は(から)寿()、瓢箪は(ふくべ)とも言い、(ふく)((部)」となって、それぞれ吉祥を表す。

 


楽しいこと、おめでたいこと、幸福なこと。


誰もが望み求めることが、「名も知れぬ山に住む小さな存在達」に宿っている。

そして、笹竹も、巣も、瓢箪も中空(ちゅうくう)であり、「空を内包するもの」でもある。

『ならなしとり』は、空間から発せられる祝福のメッセージを如何に聴けるかと言う物語だ。



梨も「無し」に通じ、を表す果実。

 


果肉が真っ白だから「色・無し」でナシ、という説もある。

無を食べて復活する

これは内に虚空の宿りを思い出し、全母性が復活する物語でもある。


回帰し、快気する。シャレのようだが、真にめでたい話なのだ。

最後に解け残ったのが、「欠けた茶碗」についてだった。

 


これに関する気づきが起き、謎が解けた時に冒頭の感嘆が出た。

人間意識は常に完璧を求め、やって来たものに対して、すぐ粗探しをしたり注文をつけたりする。

 

「もうちょっと分かりやすかったら」
「もうちょっとタイミングがよかったら」
「もうちょっと親身になってくれたら」
「もうちょっと好みだったら」
「もうちょっと素敵だったら」
「もうひと押ししてくれたら」


キリがない。

 


椀の「綺麗な色」とは、「何だか湧く興味」


「欠け」とは「探しゃ見つかる、気に入らない所」を示している。

エゴにとって完璧じゃなくとも、その場で分かりきれなくても、それが後に、必要な事態にぴったりハマる要素となることがあるのだ。

欠けた椀がここぞの時に兄達を復活させる命の水を運んだりする様に。

 


この兄達は、エゴを昇華しきれなかった過去の分割意識達を示している。

そこへも惜しみなくを注ぐ時、エゴは溶け、兄達も新生する。

 


太郎次郎三郎で三位一体。誰も置いてきぼりにせず、無の果実とともに山を下り、母の元に帰ることが出来る。

それには、来るものに注文をつけず、

自分好みに答えを編集せず、

そしてまず、

 

空間からのメッセージを素直に丸ごと聴くことが必要なのだ。

静かに、愛で聴いてみよう。

 

8月のふろく・《無の果実メモ》

 

本文がいい加減長いので、簡潔に申し上げます。

 

日常に現れる、笹や烏、瓢箪の様な「小さきものたち」の声を丁寧に聴き、その結果起きた「面白いこと」を真ん中に書き込むメモです。

 

 

梨をはみ出しても結構です。

自由にお記しになり、「聴くこと・体験すること・味わうこと」を丸ごとお楽しみ下さい。

 

(2018/8/30)