《挟まぬ思い》

 

そりゃオモイカネみたいな思い方が出来ればいいけどさ、

 

そんなスゴイ神様みたいな思い方、人間に出来るかしら。

 

と、「神様は遠きにありて思うもの」的片付け方で、理想と現実は違うとして終わらせることも出来る。

 

だが、古事記における天岩戸開きの話は、

 

無明の状態から再び光明復活を見る

 

 

つまり

 

虚空と質においては同じである分割意識が、

 

わざわざなった不覚状態から覚へと帰還する

 

プロセスについての情報を含んでいる。

 

それに気がついている人々は、オモイカネ自らを分断して捉える様な真似はなさらないだろう。

 

アマテラスは人の内側に在り、

 

オモイカネも又、人の内側に在る。

 

 

オモイカネの思い方をしてみようと意志する時に、必要なことがある。

 

その思いに“自己の満足感”への欲求が差し挟まれていないか、包み隠さず見ること。

 

この差し挟みがある時、思いは傾き、歪む

 

「己の得など求めていません!

 

 

私は我が身を投げ打って、

 

いつも損をして、

 

人を助けて来ました。

 

自己の満足感なんて後回しです。」

 

こんな人も世の中には居る。

 

 

だが、満足感はここでも全く後回しにされていない。

 

何かしらの得をするより、「我が身を投げ打って犠牲的精神でことを運ぶ自分像が実現する方に、強い満足感をおぼえる人も居るのだ。

 

優しい人であることへの満足感

 

正しい人であることへの満足感

 

戦いに勝つ人であることへの満足感

 

賢い人であることへの満足感

 

 

こうしたものは儲かることへの満足感と同じ位、人々から求められている。

 

一つの満足感だけを求める人は少なく、大抵は数種の満足感をブレンドしてある。

 

混ぜる種類も割合も様々。

 

だからそれぞれの求めている満足感が、感覚的に一致することは稀である。

 

お礼なんて結構ですと言って、相手から感謝や感激をされることで満足感を得る人々の中には、お礼を受け取る人に冷ややかな眼差しを向けたり眉をひそめたり馬鹿にしたりするなんて人も居る。

 

 

逆にそうした人々を、美徳や絆を建前にして結局は見得に縛られている頭の固い人だとして、鼻で嗤ったり呆れたり苛立ったりする人々も居る。

 

これはどれも、自らの満足感を軸にした基準でしかモノコトを見れていないので起こる。

 

世の中に溢れる見解の相違で起こる揉め事消化不良を眺めていると、

 

両者間の満足感を得るポイントが大きく異なる

 

からであると分かる

 

人間は生まれた時から、満足感を求めている。

 

母の乳を求めて泣く子も、合格を求める受験生も、億万長者も、独裁者も、それは変わらない。

 

以前に書いたこともあるが至福感至福が異なる様に、満足感満足も異なる。

 

人型をした風船があったとして、その手や足を一部ゴムで縛った状態で空気を入れて、そのまま全部を膨らまして満ち足りたいとする。

 

人間がやっているのはこんな奇妙な試みである。

 

縛ってあるのは「ここは無いことにして置きたい」部分。その縛り解くのはだが、満足はしたい。

 

土台無理な話ではないだろうか。

 

完全に満ちることがないから、飽くなき満足感への執着が保たれている。

 

 

どこまでも満足感固執「あっ、今満足感あった!もっと欲しい!」を、力尽きるまでするのも一興ではあるし勿論自由

 

だが満足感を求める選り好みが全てなくなった時の、丸ごとの深い満ち足りには永久に至らない。

 

満足になり得ない満足感切りなく求める思いは歪みを呼ぶ静かに認めて、思いの中に差し挟みがないか包み隠さず見る時。

 

挟まれた傾き発見したらそれを一旦外して全体を観察し、改めて活かすことのみを主として思う時。

 

オモイカネの思い方をすることが起きる。

 

不意に射すの様に、それは常にではないかも知れない。

 

 

だが、次第にその思い方に自然を感じる様になる。

 

同時に、これまで散々色々と差し挟んでして来た思いより、何も挟まない方が余程スムーズに事が運ぶと、実感する様にもなる。

 

オモイカネのはたらき重要だが、思うだけでは何も成せない。

 

意志と思いと行動

 

全て揃って、道は開かれるのだ。

 

挟まぬ思いは、傾かぬ。

(2022/5/9)