週明けから長い記事となりました。

 

誠にあいすみませんが、飽きたら区切る等されて、良い塩梅にしてご覧下さい。

 

木曜は、あっさりと仕上げます。

 

では記事へ。

 

《屑を活かす》

 

「えっ?」

先日の記事《分福茶釜》で絵を沢山載せたりして、主に使用した資料を読み返し、驚く様な勘違いに気がついた。

お話をめでたしに導いた、茶釜狸が舞台に出ると言うあのアイディア

思いついたのはではなくお爺さんの方だった。

 

 

そしてお爺さんも、只のお爺さんではなく「クズ屋さん」

クズ屋さんとは昔の言い方で、今だと古道具屋さんとかになる。

分福茶釜には相当色んなタイプの話があるが、他のと混ざって記憶していたとしてもこんな見落としって、あるだろうか。

「クズを活かす、人のアイディア…」

 

 

と首をひねっていて、分福茶釜について上から来ていたメッセージで、記事があまりにも長くなるからと省いたものが浮かんだ。

からが生まれていると言う大切なメッセージをお伝えするのに、最適な質と量で記事を仕上げようと力を注いでいた宮司。

正直その省いたメッセージについては「まぁいっか」程度で、「後でまかないにして頂こう」と、情報の冷蔵庫にしまいかけていた。

 

 

受け取ったもの適切なタイミングで出そうとしないと、妙な見落としの様な珍事が起こる。

成る程、上にとっては省いたものの方も、今の今このタイミングで伝える必要のある、重要な情報だったんだなぁと納得した。

と言う訳で、本日記事ではそのことについて書かせて頂く。

話は飛ぶようだが、皆様。

についてどんな印象をお持ちだろうか。

 

もっとはっきり言えば、、どちらを「格好いい」とお感じになるだろうか。

神狐、稲荷、お狐様。
色んな呼び方付き合い方で、神と狐は縁が深い。

狛犬ではなく狛狐が護る神社もあるし、神の眷属として人々におっかながられたり、素敵と思われたりしていた。

この、おっかながるがポイントである。

 

こっわ。そしてどういう状況?


狸は全然、おっかなくない。

 

地獄だってへっぽこな感じに中和。

 

実際、野生動物としての危険度はどっこいどっこいだが、こと神がかったおっかなさに関しては、を圧倒的に離している。

憑きは、恐ろしい状態として扱われるが、これが

憑き

だったら、どうだろう。

 

 

 

それも「たぬき憑き」とか、「タヌキ憑き」だったらもっと印象が弱くなり、もうそれは

「あ~、そんなの風邪に毛が生えたようなもんだ。
放っとけ放っとけ。どうせ飽きたらどっか行くから」

 

 

 

的な印象になりはしないか。

『かちかち山』の様に昔話には悪いもいるが、神がかったおっかなさではなく、盗みや殺人を嘘や腕っぷしに任せて行う乱暴

そして結局は、兎にとっちめられる

 

しかもかちかち山に出て来る“タヌキ”は、実際は昔はと一緒くたにしてそう呼ばれていた、アナグマのこと。

 

 

の肉は手をかけて丁寧に扱わないと美味しくならないので、さっさと汁に出来るものではなく、アナグマの方が食用には適していたらしい。

憑くにせよ食べるにせよ「狸」と言う存在について回る「大したことなさ」や、「手のかかる」「役立たず」な感じが、分福茶釜のお爺さんがしていた「クズ屋さん」「クズ」の部分に通じる。

分福茶釜の子狸は、悪さをしたことでつかまって苛められていた。

 

 

世の中的に見ればちっちゃなクズ

それをクズ屋のお爺さんは、一つのいのちとして大切に扱い、自由の身にしてくれた。

クズだから回収して、より高値で売ろうとか、そうした自分の得に繋げようとはしなかったのだ。

「畑を荒らすから、狸汁にして食っちまおう」

と、を捕まえた『かちかち山』のお爺さんや、「そうしましょ」となったお婆さんとは、この辺りが全く違う

 

 

かちかち山のと老夫婦の出会いは、似た者が引き合った結果として起きている。

『分福茶釜』では、化ける活かしどころを分からずに使っていたちっちゃなクズ状態の子狸と、お爺さんの背負い籠に入ったこれから役立つ道を授かるクズ達とが引き合った。

一度はクズと捨てられた籠の中の物達と同じに、子狸もお爺さんに拾われ、悪戯も無茶も全て受け入れて貰い、火傷手当てを受け、真に皆の役に立つ道を授かる

 

 

クズ屋のお爺さんは、屑のと言える。

屑の字には、「欠片」「切れ端」「役に立たないもの」の他に、「いさぎよい」「快く思う」と言う、全く違う意味がある。

「潔」や「清」と同じで、未練がなくさっぱりとしていて、明快で心地よく、小気味よく見事な状態を示す。

只、漢文の不屑(ふせつ:いさぎよくないこと)の、「じゃない状態」を言う時に持ち出される位で、屑の字だけでいさぎよいことを表したりはしない。

 

 

一歩下がって控えに回り、いさぎよく在る。

そんなさり気なさも、の字らしさである様に感じた。

にもを尽くす時。


ちっちゃなものにも、誠ある対応をする時。

 

思いもよらぬ面白いことが起こる。

ポイントは、「そのちっちゃなもの活きる道」を尊重することである。

 

 

子狸が自由になりたかったから、クズ屋のお爺さんはそれをサポート

子狸が役に立ちたがったら、その意志を活かせる道を発見してサポート

お爺さんの選択には、彼個人の都合は差し挟まれない。

星屑も、塵屑も、人間のクズも、どんどん拡大すると、もれなく光の粒になる。

 

 

光の粒は本来虚空の歓びそのもの

元は虚空の歓びであった光達エゴで澱んだ状態は、煤けた茶釜の様なもの。

丁寧に洗う必要がある。

洗ってる途中でが出て来るかも知れないが、それも素敵な転機である。

茶釜から顔や手足を出す、丸まっちい子狸は、神狐より格好良くはないかも知れない。

 

 

だが、自身の元にやって来た変化の機会を、何だかしょぼいと片付けて、もっと気に入ったチャンスが来るのを待つことに意味はない。

九つ尾のある白狐やらジャーンとした派手な何かが天から現れる日まで、魂活ストライキを決め込んでいても実りある出会いはないし、中立な感覚鈍るだけである。

世間の価値基準を使って大枠で判断する雑なノリを卒業し、として観る時に、であろうとなかろうと関係なく、そのものの素直な活かし方自然と分かるようになるのだ。

 

いさぎよく活かそう。

(2019/4/15)