《天岩戸》

 

 アマテラスが天岩戸から出て来たのは、他の神々が岩戸の前に置いた五百箇真賢木(イツノマサカキ。マサカキは真坂樹とも)に掛けられた、玉や鏡の輝きに興味を惹かれてだったり、音楽とアメノウズメの踊り、それを観る神々の笑い声に惹かれてのことだった。

 

 説得されたり、諭されて出て来た訳ではない。

 

 至福体、そして中心体の光も同じこと(なぜなら同じものだから)。
 

 思考体の嵐がどれだけ吹き荒れてもそれは中心の光を開かない。

 そもそもスサノオ(思考体)の無茶苦茶に嫌気がさしてシャットアウトしたのが天岩戸な訳だし。

 

 そこを再び開く為には、

 

 天岩戸に向かって自身のいのち火を輝かせ(=玉や鏡

 

 全身全霊の捧げものをする(=踊り)。

 

 そして光が見えたらさらにそこを自らの手で開く行動を取る(=アメノタヂカラオノミコトの働き)。

 

 この意志と実行こそが、中心の光を開き、虚空と繋がる道なのだ。


 神々は玉や鏡や踊りで外の気配をキラキラにし、「あなたのように光り輝く美しい神様が居る」とアマテラスに告げて気を惹き、出て来るきっかけを作った。

 これはなんだか策略っぽく書かれているが、実際は

  輝けるものは輝けるものとしか、相通じることができない

 という真理を表している。

 

 それのちょい手前で、アメノウズメのダンスで神々が笑ったという有名なくだりがある。

 

 神の笑いは人間の笑いとは全くその質を異にするので、ここは神の笑いの感覚を捉えていないと、単なるお色気話に終わってしまう。

 
 本来神なる存在である、我々人型生命体の中には、人間の笑いと神の笑いが同居している。

 

 人間の笑いは技術的な笑いと言ってもいい。“あるある”や“お約束”等の「こう来たらこう返せ」的な一問一答パターンの集積で、笑いの反応を起こしているに過ぎない。

 

 神の笑いは、全身全霊を賭けて躍動するいのち火を祝福する、本質的な笑い。

 それは振動であり、イコール神動である。

 


 アメノウズメはそれが立派であるとか、エロであるとか、面白であるとか、使命であるとか、(勿論その側面もあるが)念頭に置かずに、ただただいのちを尽くす歓喜の元に自らの最も得意とするもの(=踊り)を、自らの能力全てを賭けて振るったと言うだけのことだ。

 


  だけのことだと書いたが、これこそが至事である。


 その純粋な思いと実行があった時に初めて天岩戸が開いた。

 

 人型生命体は誰しもがその中核にアマテラス意識を宿している。

 だが多くがそのことを忘れ去ったていで世に暮らしている。

 

 目の前でアマテラスが入った岩戸がゴーっと閉まったのなら、誰だって必死こいてダンスもするかも知れないが、各端末で発生し(人として産まれ)、物心ついた時には既に岩戸が閉まっていたなら、「ただの岩にしかみえないようなもの」に向かって渾身のダンスを披露するエネルギーは相当なものだ。

 

 

 しかし、それをした者こそが現在目覚めている者だし、これから続く者も同じである。

 

 中に何もないように見える状態の奥のアマテラス、さらにその奥の虚空に向けて、誠を尽くす事。

 それにはまず問いが要る。


「何故こんなに寒いのだろう」
「何故こんなに暗いのだろう」

 そうした感覚を覚える者は多い。

 

 その一部が辿り着く、スピリチュアルがもたらす空の知識は、「むかしむかしアマテラスという神がおったそうじゃ…」かなんか書いてある巻物みたいなもんで、それを読んで確かにアマテラスは居る気がする、と感じるかどうかは各自の意識にかかっている。

 

 アマテラスの存在を認め、そこに向かってそれを開く為の行動を取る。

 

 本当の誠意と勇気、そして全体への天意が必要とされる。

 

 宮司に関してはまず目覚め、それから中心体の集約する部分に聖心の感覚を開く所まで達することができた。

 

(※つい先日、更に深い進化が起きたが(←New!)、あまり広げると意識が散らかるので省く。)


 勿論、自身の実践ありきだが、変わってみてはっきりと感じるのは、ここに至るまでの全体の目覚めを進めて来た多くの先達の存在があったからこそ。

 

 そして同様に、目覚めを選択しなかった(ていに見える)、俗にいう「じゃない方」の人々の存在が、こちらの意識のあり様を浮き彫りにしてくれた。

 

 どれが欠けても今日の状態は成し得なかった事を理解し、深く感謝している。

(2016/5/5)