《夜明けの予感》

 

先週記事にて書いた、太陽が出ていないのにどうやって常世長鳴鳥達が鳴いたのかの謎

 

問いを虚空に放ち返って来た答について、本日は書かせて頂く。

 

集められた常世長鳴鳥達に、自然と夜明けを予感させるには何が必要だろうか。

 

「まずは鳥を知れ」と来たので、常世長鳴鳥を鶏だとして、そもそも鶏ってどう言うタイミングで鳴くのかと調べると、日が出てからではなく明けに鳴く。

 

 

現代では割と色んな時間に鳴くらしい。

 

これは人工の灯が世の中に行き渡って「何時でも何処でも多少明るい」為に、体内時計が狂ったことも関係している。

 

朝夕関係なく、縄張り争いを主張する時にも鬨の声に似た音を発することがあると言う。

 

喧嘩するには、まず相手が見えていることが必要。

 

天岩戸開きの現場の様に太陽が引きこもって真っ暗な状況下で、どうやって縄張り争いするのか見当もつかなかった。

 

鶏同士を揉めさせたら鳴いてくれると言うのは期待薄ではないだろうか。

 

 

しつこく調べたが「ずっと続くかの様に長い長い前代未聞の真っ暗さ」の中で鶏を鳴かせる実験と言うのは出て来なかった

 

もう洞窟の中に鶏御一行を招待するか、

 

一緒にロケットに搭乗して宇宙空間に飛び出し、

 

実験に適した場を探さないと叶わないのかも知れない

  

それにしたって「ずっと」がどの位の期間なのか、そうした状況下で鶏達の体内時計がどうなるのか不明である。

 

 

暗いまんまの状態で取り敢えず鳴けと締め上げても、出て来る声は明けを知らせるものとは違っているだろう。

 

やはり自然に「そろそろ朝来るぜ」と感じることが必要。

 

どう言った時に、鶏は朝が来たと感じるのか。

 

夜目のきかない状態を表す「鳥目」の鳥とは鶏のことであり、他の鳥類と比べても元々視力が弱い。嗅覚もそれ程鋭くはないと言う。

 

 

ハッキリと形を伴った物の判別が出来ないのなら、覆いでもかけた状態で火を焚いて周囲を明るくすれば朝の演出としてイケそう。

 

だが、熱と音は誤魔化せないのじゃないだろうか。

 

視覚や嗅覚と異なり、鶏の聴力は他の鳥類と比較して群を抜いており人と比べても倍程あるそうだ。

 

広範囲を移動して狩りをする必要はないので視力はそれ程発達せず、飛んだり泳いだり出来ない体でも近づく危険を察知して生き延びられる様に聴力は磨かれたと言うことだろうか。

 

 

鶏の五感について意識を向ける日が来るとは。

 

こうして調べてみるとそのライフスタイル自然と浮かび上がって来るのが面白い

 

鶏を集めてその周囲に焚火を起こし、

 

「さあ明るいぞ!」

 

とやったって、発生するのは夜明けではなく焼き鳥の予感だろう。

 

 

鳴いたとして「お助けぇ~!」的なクワーッとかケェーッであって、その音は「朝だぜ~!」のコケコッコーとは異なる。

 

離れた所で火を焚いたとしても不穏な熱やパチパチ爆ぜる音があれば、バーベキュー大会の開催なのか、山火事なのかの違いしかない。

 

鳴いたとして意味合いは「火事だ~!」であり、その音も「朝だぜ~!」のコケコッコーとは異なる。

 

 

この反応は常世長鳴鳥が鶏ではなく、例えば烏であったパターンでも大体同じである。動物は基本、火を警戒する。

 

実際の出来事として進めるなら、どうにもこの様に行き詰るのである。

 

どうしても進めたいなら後はもう、「素晴らしき常世から連れて来た頼めば鳴いてくれる素敵な鳥なのさ」と言った、キラキラ神話処理でもして煙に巻いておくしかない気がする。神話好きの人々は、そうして来たんじゃないだろうか。

 

キラキラをまぶしたりせずにそのまま奥を観ると、この話を通じて虚空が何を示しているのか分かる。

 

先月のふろくにご用意したメモは、どうにかして叶える頓智クイズと言うより、「あっれぇ、やってみると意外とムズイな」とその難しさを楽しむものである。

 

答として受け取った必要な要素実にシンプルだった。

 

静かにする。 

 

鳥に丸焼きの危機ではなく朝の到来を感じさせるには、やはり静けさの要素が欠かせない

 

太陽が出ていないのにどうやって常世長鳴鳥達が鳴いたのか。

 

 

静けさの中にあって、現れ来るを感じたから。

 

実際の出来事だとすれば、現れ来るはまるで魔法の様に感じられる。

 

だが、意識の目覚める過程を示す象徴の一つとして理解すると、それが何なのか自然と分かって来る

 

常世長鳴鳥は生物としての鶏を超え、新しき世の到来を告げる音の象徴として、天岩戸開きイベントの冒頭で重要な役割を果たしている

 

岩戸開きの始めを、無明の不覚状態から変化を起こす始めに重ねてみると、

 

  

意識がエゴを肥大させるばかりのお喋りを止めて静かになった時、

 

己が手元を明るくすることに止まらない、個を超える光明が内に灯る

 

その普く全てを照らして輝き始めた時に、“鳥は鳴く”のだ。

 

現れ来るには、焼けつくような熱も爆ぜる音も煙の匂いもない。

 

炎上や騒乱や匂わせのない、意図を超えた明るさである。

 

 

不覚時代と言う青春を支えていた明るさは既に薄れ、消えかかりしている

 

世の多くの人にとり、只今は日暮れの時であると感じられているだろう。

 

ここから真の明けに向かい、意識の内に灯す一燈が必要となる。

 

この一燈を、手元の提灯やルームランプ程度の状態にめ置くなら当たり前に鳴かない

 

一燈により無限意識照らそう意志する時、明けの予感生まれるのである。

 

我が手に包める、夜明けはなし。

(2022/5/2)