《共に立つ者》

 

世界が暗い気配に覆われようとも、進む道は内側の深みに広がっている。

 

 
1960年代にドリフターズからソロに転向した、ベン・E・キングの超有名曲。

 


 
『Stand by me』は映画の主題歌として、20年以上経って舞い戻り再ヒットした。
進化変容にとって重要な情報を含む作品には、こうした動きが良く起こる。
 
もう一つ、複数人の手になる作品には全母の後押しする力が宿ることが良くある。
この曲もソロに転向する前、ドリフターズの為にキングとジェリー・リーバー、マイク・ストーラーが共同で作った。
 
一応申し上げるとこのドリフターズとは、日本のハッピおじさん達ではなく、50〜60年代に活躍したアメリカのコーラスグループのこと。

 


 和ドリフも重要な情報を多く含んだ存在だが、洋ドリフの仕事も探ってみると面白そうである。
とは言え、本日記事にはあまり関係がないので、ドリフ達は一旦虚空に投げておく
 
この曲は20世紀初めに生まれた全く同じ曲名の黒人霊歌から着想を得て、作詞されたと言われている。


神への愛は、伴侶や恋人等の大切な相手に対する愛に変化したが、それでも聖書の内容に重なる歌詞がある。
 
“If the sky that we look upon
Should tumble and fall
Or the mountain should crumble to the sea”

 

(見上げる空が崩れ落ちても
山が砕けて海に沈んでも)



これは旧約聖書詩編46の1から3にあるくだり、

 

「神は我らの 避け所 我らの砦 苦難の時のいと近き助け 

 

ゆえにたとえ地が様を変え 山が海中に移ろうとも 我らは怖れじ 

 

たとえ海が唸り響き 沸き立とうとも その荒波に山が動こうとも 我らは怖れじ」

 

に、通じる。
 
聖書の方では表現を重ねて繰り返し、どうしても「山を海に持ってこうとする」感じである。
 
トンガリを沈めて、平らかにする意志が見て取れる。
 
大胆な天の国土開発にビックリするが邪魔は出来ないし、するつもりもない。
 


起きることが、必要ならば起きるだけである。
それも不覚の手になるより、余程見事かつスムーズに。
 
そんな最中に、進化の道を行く者達
彼らに添って共に歩むサポートをキリストや、日本では空海が同行二人スタイルで続けている。
 
そのサポート役に向かって、多くの不覚者は意識の中に偏りを残したままstand by meと請う。

 

 
遠くに輝く微かな月明かりしかない夜の中
心細い気持ちを励ます様に、隣に誰か寄り添って居てくれたら。
 
不覚に彷徨う時、そんな思いに駆られることもあるだろう。
大丈夫。見えずとも、ちゃんと居る。

 


だがその前に、stand by meとは、一体どういうオーダーか。
 
“そばに立て”と言えるのは、自ら立つ者だけだ。
 
イエスにせよ、空海にせよ、愛しいあなた(ダーリン)にせよ、
どんな険しい道でも共に歩もうと言う存在に向かって
 


「俺は寝とくから、
ちょっと横立っててくんねぇか」
 
そんなおかしなことを
頼める訳がない。
 
立つと言うのは、「全ての傾きに寄らず、中心に独り在る」状態。
 
座った時点で、半身はどちらかの方角に寄る。

 

横たわって寝れば更に偏り、頭は決まった方角の情報ばかり集め、投げ出された足の方にあるものは雑な扱いになる。
 
stand by me前のstand upは基本なのだ。
 
歌の中に、頼もしいが少し不思議な歌詞がある。
 


“Whenever you're in trouble won't you stand by me”


(どんなときでも困ったらそばにおいで)
 
最初に感じた頼もしさは、「相手が持ち込むトラブルも、どんと来い」と言う姿勢にみる気っ風の良さ。

 


だが、ここにあるのは果たして気っ風の良さだけなのか?
 
見つめていて、その奥深さに気がついた。
 
相手の窮地に共に立つ時が、自身の進化の支えにもなる。
 
無事でいられる様に、支えて欲しいのではない。
進化の本道を行くのを支えて欲しいと願っているのだ。
 
これは少年の為の歌でも、迷える子羊の為の歌でもない。
 
勇気を奮い、天意からの愛で進む、覚悟を決めて真の大人になる者の歌だったのだ。

 

共に立つ、進化の地平。

(2017/11/16)