《会いに行ける地獄》

 

 本日は“何の気なし”を普段から実践している端末が、それによってどんな気づきを得ているかの一例をご紹介。

 

 新宿はまさに何でもありな多面性を持つが、地獄の釜の蓋開きっぱなしのような街というイメージでも割合知られている。

 

 何せこの街、閻魔が居る。

 

閻魔。

脱衣婆。

でっかい地蔵。

 

 そんな濃すぎるトリオがお出迎えしてくれる寺がある。

 

 7月15日に、ふと思い立ってその閻魔さんハウスを尋ねた。

 

 年に2日しか公開されない何かがあると聞いたからである。

 実はその何かが何なのか、詳細は良く知らないまま出かけた

 

 普段、格子越しにしか見えない閻魔さん達を直で見れるイベント程度に思っていたのだ。

 

 本堂の階段を上がり受付を済ませると、荒れ模様の天気のせいか誰もいない。

 広間の正面に巨大な曼荼羅が広がり、両側の壁には掛け軸が並んでいた。

 

 左右に分けて小さめなものが10幅、大きな曼荼羅が2鋪、涅槃図が1鋪。

 

 小さめな掛け軸達は十王図と呼ばれるもので、地獄の様子が描かれていた。

 地獄には時で区切った担当部署があり、閻魔も含めた十王分業制で回っている。

 

 これらが年に2日の公開らしい。

 さすが閻魔ハウス、テーマ性に則ったチョイスと思いながら、順番に見ていると面白いものを見つけた。

 

 

波間に溺れながらに襲われる人々。

 

 こんなでっかい虫にダイナミックに折檻されるってハリウッド映画みたい。
 バグについて江戸時代にもチャネリングできていたのか。

 

 同じ掛け軸の中にある、もう一つの池が有名な血の池地獄になっていたのだが
 この地獄、女しか浮かんでいない

 生理出産など、血に関わることの多い女を不浄の存在だとした、当時の宗教観が見て取れる。

 

 そこから2つ程掛け軸を移ると、湧き上がる水に巻かれる人々と、その上で祈る何者かが描かれている。

 不思議な臨場感で、先ほどの赤まっしぐらな血の池がぐるんぐるんお洗濯されて、澄んだ水に浄化されていくという感覚がある。

 

 掛け軸の端々まで見ると、恐ろしい場所に震える亡者ばかりが描かれるのではなく、体育会系の獄卒に混じって

 

割と涼しい顔のスタッフ

 

も行き来している。

 

 更に良く見ると、もうスタッフですらないような、あっさりした風情の旅の者も描かれていたりして、現在の新宿のように地獄は割とフリーダム。

 

 じっくり地獄を堪能した後、祭壇を覆って正面に広がる、精緻な絵柄ほんわかパステルカラー曼荼羅を眺めていて、ふと分かったことがある。

 

 地獄と極楽はやはりセット概念なのだ。
 そして人間は地獄のドラマ性に非常に執着している。

 

 正直、極楽などハッピーエンディングを知らせる1ショットで十分と思っているのだ。
 だから曼荼羅は数だけ幾つもあっても、動きがまるで無い集合写真のような静止画ばかりである。

 

 というのも我々は、まっさらな光の状態からパステルの領域を通って、極彩色の現場まで到着している。
 極楽より、地獄の方がNEWなのだ。その新鮮さとドラマ性に夢中になったのも無理はない。

 

 だが青春ドラマに別れを告げる時が来ている。

 

 罰したのも罰せられたのも裁いたのも裁かれたのも苦しめたのも苦しめられたのも、もういい。
 やりたい者は続けるがいいが、心底卒業に向けて思い切れる者は、もうそこに掴まらなくていい。

 

 そのことを知らせる為に、ここに呼んでもらえたのかと、仏にも閻魔にも感謝した。

 

 帰りにワイルドでガタイのいい閻魔と、何故か秘宝館のテイスト香るリアルな脱衣婆に挨拶する。
 閻魔はともかく、脱衣婆の風情はここがかつて宿場町だった名残なのかも知れない。

 

 この寺には、みんながここから塩をもらって、治癒を念じて痛い箇所に塗り、治ったら倍の塩を返すのを繰り返して、ほぼ塩の柱と化している地蔵があり、ホラー大賞を贈るならそれと思う。

 

 ホラーは念の副産物。

 

 確かにホラーには生きてる感じを焚き付けるドーピング効果があり、無事という安堵感の幸福とセットにすると際限なく行けちゃう酒のようなもの。

 

 だが、酒のツマミにするには勿体ないのがである。

 

 いずれ地獄極楽と言う概念自体が秘宝館のような存在になる。

 

 それはそれで素敵なことではないだろうか。

ホラーもほどほどに。

(2016/7/25)