《マッチ売りの少女》

 

オオカミと7匹の子ヤギのような塩味の効いたラストどころか、塩の塊みたいな状況で締めくくられる物語もある。

 

以下2点出典:http://www.match.or.jp/column/column08.html

 

全くキッズうけも親うけもしそうにない、なのに辛気くさいまま童話のひな壇に延々と納まっている、『マッチ売りの少女』

 

この物語に意識を向けていて、「あ、成る程な!」と驚く発見があったので、本日記事にてご報告申し上げることにした。

 

今後無視することの出来ない大切な要素なので、この時期に発見出来て本当に良かった。

 

これも全母の計らいと感じる。

 

テーマは「愛と感謝」

 

凍えそうに寒い大晦日の夜、父親からマッチを売って金を稼いでこいと路傍に追い出され、誰にも助けてもらえずに、マッチの炎に浮かんだ幻を見つめながら一人死んで行った哀れな少女の話。

 

逆さに振っても愛と感謝なんか出てこなさそうに見える。

 

誰も少女を助けなかった。

横暴な父親は、稼いでこいと少女を寒い冬の町に放り出したし、
道行く人も自分のことばかりで誰も少女に同情もしなかったし、勿論マッチも買ってあげなかった。

 

優しかったのはマッチの灯の中に現われたおばあちゃんの幻影だけ。

 

だが、


愛と感謝がなかったのは親や町の人々だけだったろうか。

 

無慈悲で横暴な親でも無条件に愛おしいと思い、どうにかマッチを売って役に立とうと言う思いは少女にもなかった。
手ぶらで帰ったら殴られるという恐怖だけである。

愛されなければ愛さない。

 

これは2016現在まで世人に愛だと思われている“情の愛”特有の狭い動きだ。

 

町の人に対しても同じことで、声をかけさせてくれることへの感謝が少女にあったろうか。
買ったら感謝、では、愛してくれたら愛する、と同じことなのだ。

 

それにマッチも、マッチを売ることも彼女は愛していなかった。


持たされたもの、させられること。
嘆く者にとって与えられる場所はいつもそんな感謝欠如の場となる。

 

人が人から何か買う理由は、必要だからだけではなく、買うことに喜びがあるかどうかである。


嘆き哀しみ意気消沈したり何とか声を振り絞ったりして、そんなお通夜救難信号がセットになったような領域に足が向かなくても、誰がその師走の忙しい人々を責められるだろう。

 

誰からも愛を注がれず、また誰にも愛を注がず、少女はどんどんと凍えてゆく。

こんな目に遭って、愛を注げる方がどうかしていると思われる方は、シンデレラの項をご参照頂きたい。

 

寒さのあまり、暖をとろうとつい少女は売り物のマッチに火をつける。

父親から持たされた、彼女が仕入れたのでも作ったのでもないマッチ。


父親という端末を通して全母から、愛と感謝を発揮する為に用意されたエネルギーを、少女は自分を暖める為に使った

 

寒くて感覚と一緒に感受性まで麻痺している可能性もあるが、彼女の口から親への申し訳ないという気持ちは一切語られない。
そうしてマッチを擦って現われた素敵なご馳走やあたたかい暖炉は、炎の幻影となって輝き、味わう暇もなくあっという間に消える

 

出典:muhmin-papa.cocolog-nifty.com

 

1本擦ってからはもう止まらず、おばあちゃん出したあたりで「消えないで自分も連れて行って欲しい」と宣言し、ありったけのマッチで火をおこす。
リアルさ満タンになったおばあちゃんの幻影に抱っこしてもらって少女は「ここではない場所」に行く。

 

冷たくなった自分の体は置き去りにして。

 

これは変容ではない。
逃亡の物語だ。

 

マッチ売りの少女は、極貧の中で育った実母をモデルにアンデルセンが書いた物語と言われている。
アンデルセンを産んだのだから母は成人しているのだが、作品は少女の死で締めくくられている。

 

母と違い、生き残って成人することが叶わなかった小さな命への鎮魂歌とも取れるし、母やアンデルセン自身が子供時代に感じた貧困の辛さを成仏させるために、死を美しいものとして描いたとも取れる。

そんな“見せ・センチメンタル”なノリには興味が湧かないので、「有史以来ずうっと、分割意識は御神体に対して失礼だよなぁ」と腕組みして呆れていたが、作者の意図を超えて、大切な真理が中に流れているから、この物語が現在まで語り継がれているのだと分かってやっとすっきりした。

 

愛と感謝の欠如全一の運びを歪める

 

これを知ることが必要だったのだ。

 

人類はずっと条件付きの愛をやり取りして来た。
その中でマッチ売りの少女が無条件の愛を発揮できなくても、そのような時代だったからとしか言いようがない。


だが、本来愛は理由なく溢れて来るものだ。


 既に変容の気は満ちているので、今後は愛と感謝を物理次元に捧ぐことの出来る端末しか、ここに残らない。

 

マッチ売りの少女は、報われない自分と周囲を嫌ったまま報われようとして、結果物理次元を去ることになった。


ただ、「こうやったらこうなるよね」という愛と感謝の欠如を象徴する存在なだけで、それもまたひとつの役割。

その役をやりきってくれたことへの感謝をすることで、彼女に代表される「可哀想な弱き犠牲者」のプログラムも成仏出来る。

 

2016では、報われる為に生きる時代そのものがもう終わっている

それぞれが独自に自由に愛を発するだけ。

 

愛が機能不全になっていた時代の貴重な文献として、この物語にも愛と感謝を捧げる時期に来ているのだ。

 

物語の舞台となった冷たい冬の町はそのまま愛のない世界を表している。

結構前から「氷河期」のメッセージが来ているが、愛と感謝がないまま過ごすと、そんな感じの画面が出るのだろう。


腹をくくって実践を重ねられている本気の方々ほど、世間の氷河期とは関係がなくなる。

 

テレビ中継で見るような距離感で、「おや、外は凄い寒さのようだぞ」とは思われるかも知れないが、特に気にすることもないので、眺めながら熱いココアでもお召し上がり下さい。

進化、お先で~す。

(2016/11/3)