《ヒダル神》

 

不覚に在って意識が激しい思考や感情に揺らぐと、その度に粗く変質したエネルギーが発生する。


この変質エネルギーは、各自が飼いならすエゴになるのは勿論、粗い波動を求めて不覚の世を彷徨う者達も引き寄せる。

本日記事でご紹介する“神”も、そんな彷徨う者のひとつである。

ヒダル神は、突如不可解な激しい空腹感倦怠感をもたらす憑き物として、西日本を中心に伝わっている。

山道、峠、四つ辻、火葬場、磯、そして行き倒れの死者が出た現場。
かつては、そうした所に現われた。

 


人が肉体の疲労をじっと耐え忍んだり、他者の死に思いを馳せてちょっと不安に駆られたり等して、様々な理由で

「あぁ、人間で居るのきつい!自分で居るの辛い!」

と、与えられた役割を投げ出しかける時、投げ出すまで行かずとも「ちょっと」意識がそこから離れる時、空いた隙間にヒダル神が忍び込む。

只でさえ疲れている所に、愚痴を言う力も奪う程の空腹感倦怠感
憑かれた方はたまったものではないだろうが、そんなヒダル神にも対処法がある。

 

その場で一口だけでも何か食べるか「米」と言う字を手に書いて飲むと、体が動かなくなるまでにはならない。


又、食べ物を遠くに投げたり、脱いだ着物を後ろに投げたりしても効果があったらしい。

最後のは脱皮を表していて面白い。
他の方法を見ていると、ともかく何か一口くれればそこまで悪さはしない、物乞いみたいな神の姿が見えて来る。

何も持ってなければ殺すまでしたのは強いからではなく、それだけ向こうも飢えているからである。


何故、飢えるのか。

与えず欲しがるから。


こう書くと、本当に身も蓋もないが、実際そうなのだから仕方ない。

何故、憑かれた者の体が重くなるのか。

憑く方が、動けない程の倦怠にまみれているから。
それが自らを丸投げして縋り付いて来るので、重いのも不思議じゃない。

そして「何か一口」程度の対応で追っ払える所に、「実は弱っちい存在である」ことが見え隠れ。

自然環境がある程度整備され、人々の食料事情も良くなって、ヒダル神もすっかり商売上がったりじゃないだろうかと思いきや、先日意外な所で発見した。


「おや、こんなに可愛くなっちゃって…」と驚いたものである。


何のことはない。

餌がなくなった熊みたいに、ヒダル神も里に降りたのだ。

しかも今の狩り場の方が、山道の旅人よりずっとチョロい。

 

「何かだりい」となればすぐ横になってくれる宿主が沢山居るし、質を問わなければ食べ物も豊富。
ちょっと検索すると、同じノリで暮らしてる仲間も大勢見つかる。

 


ヒダル神同士で互助会でも作って「この暮らし、手放してなるものか」となってもおかしくはない。
飢えや倦怠に「可愛い」を盛ったあたり、それなり企業努力だよなぁと感心する。

不覚社会でインプットされた「だるい、うごきたくない、さぼりたい」のプログラムに応える、可愛さで包んだ「ぐでっとしよう」の免罪符。


一見、自由っぽく振る舞っているが「シャキッとするなんて有り得ない」のなら、それは結局固定化された思考や行動のパターンであり、間違いなく不自由だ。

真に自由なら「いつでもどのノリにでもなれる」

そしてその自由がある時、不自然な気の停滞は起こらない。


この存在が怠そうにしながら「結構気の利いたこと」を言うと評判なのは、そこに全精力を傾けているからである。


全体に貢献せず動かないままで、その気まずさを埋めようとしたら「何か気の利いたことを言って、それとなく存在意義を出そうとする」ことに向かうだろう。

只、そんなもので何ひとつ誤摩化せないのが新世界。

 


「大人になりたくない」ものは「それにふさわしい領域」に留まり、次第に消え行くことになる。


成る程、そう言えばこの存在はヒヨコではなくタマゴなのだ。
正確にはタマゴの黄身

黄身は本来、雛を育てる栄養分


捧げられ昇華されるはずの黄身エネルギーが、衝撃から守るボディーガード役の白身居座って暇してれば、そりゃあぐだぐだ言い出しもするだろう。

面白い台詞がある。

 


復活再生することなく、旧時代の温度を高める燃料として消える。
そんなことを予見しているなら、彼らも全体の流れについて、何となくある程度までは分かっている。

 

まぁ、その「何となくある程度」は、変容に際し特に意味は持たないが。

このタマゴ型存在以外にも姿形を変えて、可愛らしさ美しさ親しみ易さ恐しさ等、それぞれ工夫を凝らして、現代のヒダル神は不覚の意識達の隙を窺っている。

彼らの縋り付く手を解く方法はたった一つ。


意識を中心に置き続けること。

確信犯。

 


すっかり居座られてたとして、それらが立ち退くまで、最初はどんなに苦しかろうが、不安だろうが、である。

癒着が解けて適切な距離が生まれれば、何のことはない彼らも「ちょっと古めのヘボ可愛いもの」に納まってくれる。

変質した神も、奥底ではそれを求めているのだ。

 

と言うより断然(あやか)な彼らの活動も、身を呈して「しくじり先生」ポジションを引き受けて、その様を見せてくれているとも取れる。

 

のるか、そるか。立つか、ぐでるか。

覚と不覚の試金石として、ヒダル神も有効活用するのが変容の時代である。

 

今無き者達の“神”。

(2017/8/17)