《つるの恩返し》

 

怪我をしたツルを見つけて、手当をして助けた人の家に、知らない娘が訪ねて来る。

 

娘は中を覗いてはいけないと言い渡して奥の部屋にこもり、美しい反物を仕上げては渡してくれる。

 

不思議に思って中を覗くと、助けたツルが自らの羽を毟って、布を織っていた

 

秘密を知られたツルは恩返しに来たことを話し、知られたからにはもうここに居られないと、哀しげに空の彼方に飛び去って行く

 

後に残された人もそれを寂しく見送る

 

 

まだ不覚の小さなひとであった頃、この昔話は本当にだった。

こんなに曖昧で寂しい後味のお話が、何の為に存在するのか。
 
当時は昔話と言ったら、「ひと騒動あってからの目出度し目出度し」の幸福感を味わうとか、「変な動きを天罰的にとっちめられての破綻」で道徳観を育てる等の、何かしらのオチがつくものだろうと勝手に思い込んでいた。

『つるの恩返し』にも天罰めいたオチがあると言えばあるが、どうにもうっすらとしている。

 


そして、単に不意に訪れた幸運を覗き見で失った哀しみ」に留まらない、何とも言えない違和感が腑に落ちないまま残る。

これは一体何なのか。

 

そしてこのお話が現在まで語り継がれ、人気の昔話一覧と書かれた中に入っていたりするのは何故なのか。

先日その問いが意識に浮かび、人気になる要素あるかな?」と、首を捻りながら観察していて、『つるの恩返し』から人類が未だ受け取り切れていないメッセージにようやく気がつくことが出来た。

それは、

 

 

自己犠牲の
不自然さと、
その限界。

そうだ余りにシンプル過ぎて気づかなかったと、膝を打った。

後、「人に化けられて機も織れる何か凄いツル」として、ちょっとツルを遠い存在にし過ぎていた。

どちらかと言えば、「不思議な幸運失った人間」の側で読み手はこの話を味わう。

 


失う人々は老夫婦であったり独り者の老爺だったり、嫁の来手がない若者だったり様々。

それ以外、やって来るのがツルで、自らの羽で機を織って反物を作り、それを売ったお金で恩返しをしようとする所、そして約束を破ったことから恩返し中止、恩返し側と恩返され側が、離れ離れになる所は大体共通している。

更に共通するのが、若者であっても老夫婦であっても、「ちょうど貧乏」な所。

貧しくても楽しい暮らしの中にツルがやって来たと言うより、大概は皆であることやしいということに困っている

 

 
貧や寂と言う「飢え」と、自己を「犠牲」にしてまでの奉仕は引き合うのだ。

羽を使って反物を作るのは何故だろうか。
  

そもそも羽は飛ぶ為のものであって、綺麗な着物を作る為のものではない。

この不自然さからも、正体がばれたら去らなければならない理由が分かる。

無理をし内緒で、困窮する者へ恩返しの名のもとに施しをしていたツル。

 


その施し作業をツルが内緒にしていた“相手”とは、「全体一つの流れ」である。

ツルは

ではなくで、

恩返しをしていた。
 
によって、全体一つの流れに沿って行われる動きであったなら、周囲が心配する程やつれたりはしない。


打ち出の小槌みたいに、ツルの羽がジャンジャン抜けて生えてとでもなって不思議はないのだ。

 


もしくはたった一つの反物を元手に、資金運用して増やし、末永く楽しく暮らしましたとさ、でも不思議ではない。

辛い思いをして羽を抜き、そして作っても作っても反物が必要になるのが自己犠牲のループである。

信頼し尊敬する人の為

愛する家族の為

守るべき可哀そうな人の為

我が身を顧みずに奉仕する姿は、古くから美談として扱われて来た。

 


だが進化発展とは、誰かの犠牲がなければ成り立たないものでは全くない

『つるの恩返し』は、

「秘密や約束を守って、得たり施したりし続けよう」

ではなく、

「部分から部分への情は、どれだけ綺麗に整えても、限界あるからね」

と教えてくれているのである。
 

弥栄は減らない。

(2019/6/13)