《 だるまちゃんとてんぐちゃん 解答編その2 》

 

『だるまちゃんとてんぐちゃん』は、だるまちゃんシリーズの一作目。

 

毎回、主役のだるまちゃんが相対する様々なゲスト。その第一号である、てんぐちゃん。

 

だるまちゃんが興味を示すてんぐちゃんの恰好は、彼独自の物ではなく言ってみれば天狗族の公式ユニフォーム。

 

その点を踏まえて更に観察を続け、感嘆で溜息の出る気づきに至ることが出来た。

 

てんぐちゃんは、

伝統を象徴している。

 

 

「え?伝統?だるまちゃんと元気に遊んだり、こんなに自由で可愛らしいのに?それはちょっと違いやしませんか?」

 

と感じた方は、おそらく伝統に「格式」「権威」を張り付けて一体化させるのに慣れ切っている。

 

余りにも長い間一緒くたにされ過ぎて親戚みたいな扱いになっているが、格式や権威と、伝統は本来同じではない

 

そこを分けて書いたものをこれまで読んだことがなかったので、宮司を名乗る“これ”も改めて気がつき、溜息が出た次第である。

 

気づいてしまえば、それは全く“そう”なのだ。

 

「伝統とは何か」については辞書を引けば様々な説明を見ることが出来るが、最もシンプル表現されているのが

 

 

 

「ある集団・社会において、歴史的に形成・蓄積され、

世代をこえて受け継がれた精神的・文化的遺産や慣習」

 

と言うものだった。

 

そこに良い悪いない

 

只、脈々と受け継がれて来た、それだけを言う。

 

 

「良いものだから受け継がれて来たんでしょ」と結論付けられるなら、「悪習」「悪弊」「負の遺産」等の言葉は存在しないのではないだろうか。

 

続くイコール良い、とは限らない。

 

悪い、とも限らない。

 

続くは、続く。それのみである。

 

てんぐちゃんの装束や姿形を見てみると、一つも彼によるアレンジが加えられていない

 

 

頭襟をわざとずらしてみたりしないし、うちわに装飾を加えたり下駄をブーツに履き替えたりもしないし、「もっといいはな」とか、「一族で一番のはな」とかを目指して整形したりもしない。

 

一方、型破りな仲良しは未だかつて誰も見たことのないスタイルで天狗を表現しようとしている。

 

てんぐちゃんが権威格式寄りかかっていたら、だるまちゃんの「なってなさ」をあげつらって格の差を見せつけようとするだろうし、

 

権威格式ウンザリしていたら、羨ましくなって自分も新しい天狗スタイルを追い求めようとしたりするのではないだろうか。

 

 

伝統は、権威格式依存しないし、疎んじたりもしない。

 

 

伝統を超えるかも知れないもの邪魔にしたりもしない。

 

 

その懐の深さによって、発展途上の自由意志は自らの不足に気づくことが出来、更に進化しようとする。

 

 

そして自由意志の発動によって、

 

伝統を維持するだけでは不可能なことが

 

突然実現する場面が訪れる。

 

これにはてんぐちゃんも、最初はショックを受ける。

 

伝統が自由意志による革新を目の当たりにして受ける衝撃であり、当然のことだ。

 

 

しかし、次のページではもうその出来事昇華し、讃えている。

 

 

ニューカマーが「いちばん」で構わないし、それを祝うことが出来る。

 

 

これが真の伝統である。

 

伝統を利用して格式や権威のある雰囲気を作り、出た旨味に酔って暮らす者には、そんな祝福は出来ない。

 

「いちばん」の言葉は最新を讃えるもので、「上等」「下等」と言ったないことにも気づいた。

 

何故こんなにも昇華速やかなのか。

 

  

天狗であるにも関わらず、全くテングになっていない彼。

 

感心しつつ「テングになる」とはあくまで、天狗かと見える程に鼻高々な気分になる人間のことを言っており、天狗そのものとは関係がないことに今更ながら気がついた。

 

 

「恋人がサンタクロース」と言うフレーズを聞いたことがあるが、それは多少洒落めかしてクリスマスに訪ねて来る、惚れた女に向けて気前の良い男

 

決してその者が、世界中のちいさな人たち贈り物を配り歩く訳ではない。

 

「俺と一緒に、世界の子供たちへの年一回のプレゼントをライフワークにして永遠に暮らさないかい?」

 

と言ったプロポーズがある稀な場合を除いて、単にカップルが盛り上がるイベント浮き立つ男である。サンタではない。

 

 

「この所あいつぁ、すっかりテングだぜ」なんて言われる奴が居たって、別に天狗と関わりのある訳でもないのだ。

 

「何てこった、学びは尽きないな」と、だるま先生にもてんぐ先生にも感謝した。

 

尽きぬ学びで充実しているが、肝心の人型生命体物理次元で事を成す時に必要なことについてはまだ書いていない。

 

本作品中、最も奇妙に感じ、分かって見ると最も味わい深いものとなった場面についても、まだ書いていない。

 

なので、もう少々彼らについてお伝えすることになるが、こうして3回も同じものを扱えば飽きて退屈する方も出て来るかも知れない。

 

木曜記事では一旦他のことを書き、以降に再び先生方にお出まし頂くことにする。

 

伝統と革新の歓び。

(2020/10/12)