なかなかに長くなりました。

 

あいすみませんが手が空かれた折に、飽きたら少しずつ分ける等されて、いい塩梅になさってご覧下さい。

 

では、記事へ。

 

《かもとりごんべえ》

 

全く、奇妙な物語なのだ。


一攫千鴨を狙った「出来る男」志願が、思わぬ形で足下をすくわれるこの話。

 


その思いがけない事態によって図らずも叶ってしまった飛行の愉快さ等で、それなり人気があったのか、探してみると年代も描き方も様々な『かもとりごんべえ』が存在することが分かった。

以前、聞いた話がふと浮かんだ。

部屋の中を走っていた人がコーナリングを誤り転倒。その際、家具に臑を強打
倒れて、思わす叫んだのが、

「あー!

ゴンベーが!!!」


 確かに、権兵衛弁慶には、実際合っているのは「べ」のみであるにも拘らず、妙な親和性がある。
 
しかし、義経と共に戦ったあの弁慶が泣いてしまう箇所に痛烈なショック


権兵衛だったら失神しているかも知れない。
 
そんなことを思い出しながら「ゴンベエ…ベンケイ…ドンベエ…」と呟いていて、話が、と言うか話題にしている対象がどんどんズレて行くことに気がついた。

 

 

「え、ちょっと待って。権兵衛」

弁慶 

どん兵衛


「全然違うじゃないか!」
 
上島竜兵ばりに帽子を地に叩きつけたくなったが、そんな激昂では本質を理解するまでには到達しない。
 
そして、冒頭に申し上げたあの「奇妙」の理由も解き明かせない。
 
それについては後程申し上げるとして、まずは『かもとりごんべえ』の物語を追ってみることにする。
 
腕のいい猟師である権兵衛は、毎日捕っていた鴨を一羽ずつではなく、まとめて捕獲することを思いつく。

 


眠った鴨達に縄をかけて捕まえた所までは思い通り
 
野菜やビットコインならまだまとめることも出来たのかも知れない。
 
だが相手は一羽一羽が自在に動く生体
 
無数の鴨>人間一名
 
結果、「捕らえたつもりが捕われた」状態になり、権兵衛が大空へ舞うことになった。
 


この下りには、普段は鉄砲で撃っている鴨を、

 

「たまには手づかみで行ってみよう」

 

となり、捕まえた鴨を片っ端から己のふんどしに挟んでいる間に、逃げようとする鴨の飛行力で大空に…、と言う「ふんどし挟み込みバージョン」も存在する。

最初に発見したのが英語学習教材だった為、「海外の人による突飛な脚色」なのかと思っていたら、

元々こっちにも有った。


腰蓑みたいにワサついているのが鴨。

一つずつを歓びで受け取ることが出来ない、エゴが巻き起こす騒動の不自然さが見事に描かれている。
 
この飛行の後、権兵衛は見知らぬ土地の粟畑に不時着。


鴨とはきっぱり縁を切り、現地の農家に雇われて働き始める。
 
収穫のさ中に、有り得ない大きさの粟の穂を発見。

 


刈り取ろうとして、がはじけた拍子に飛ばされて、又も空へ
この辺りは、スクナヒコナが去った時のエピソードに重なる。
 
次に権兵衛が降り立ったのも、見知らぬ土地
今度は地元の傘屋に奉公することになる。
 
商品の傘を並べていた時に、不意の突風が起こり、何と傘と共に三たび空へ舞う
 
この傘の下りを観察して気がついた。
 
個の都合を残したまま翻弄されるだけの存在と、起こることを受け入れてそこに自ら加わる存在の自由度は全く違う。

 


同じ傘でもえらい違い。

傘にドレスの彼女は魔法が使えはするものの、個の都合に依らず全体に沿って行動する。

その為に自然界からの協力も、まさに自然と受け取れるのだ。

 


受け入れながら自主的に全体の中で動くのと、
 
巻き込まれつつ抵抗しながら藻掻くのとでは、
 
当たり前に、着地する結果も全く変わって来る。


権兵衛途方に暮れ感がそれをよく表している。
 
強風と傘とが彼を運んだのは高い塔の上だった。
 
目も眩む様な高さはそれもそのはず、五重塔

 

 

五重塔とは仏教の五大思想を表現した「地・水・火・風・空」の五層からなる仏塔である。

その天辺に舞い降りた、欲張りでおっちょこちょいな一般人

宮司がその奇妙さに驚いたのが、そこから起きる「騒動」と、「話の締めくくられ方」だった。

 


ご覧の有様。

 

上の絵本では五重塔でなく庄屋の家に落っこちたのだが、そのものが燃えたり周辺が燃えたり、どっちでも火災が起きる。

落ちて怪我をしない様に、助けねばと「良かれ」でとられた行動も、事態を変えることはなかった。

 


「なんとも 人さわがせな ごんべえです。」って、人さわがせで済むのが凄い。

 

五重塔だとそれそのものが丸焼けとなる。
  
この結果を眺めていて、気がついたことがある。
 
同じもの同士が引き合う
 
一つ一つを感謝で味わっていれば何の不足もなかったのを、権兵衛は一挙に収穫と言う、正に「濡れ手で粟」と言う方策に出る。
 


その強欲が、性急が、五重塔を取り巻く気配に通じていたのだ。
 
当初、理想の上で五重塔に込めたメッセージは「元素から虚空へ昇華するプロセスの体現であったかも知れない。
 
ところがそれが「世を見下ろす塔」「それを管理する自分達」と言ったどうでもいい概念に絡め捕られて、脇道に入ってしまった。
 
例えそれが、「良かれ」の思いからであろうとも。
 
そもそも良かれって何だろうか。
 


「有り難い教えだから」等、ワンクッション置いた形にしても、結局は「特別な我等、衆生を救わんとす」的な姿勢から逃れられないだけの者は、今一度権兵衛から真摯に学ぶことだ。
 
同じものが引合うのだ。
 
一瞬でも、一ミリでも、我欲にブレたままで積み上げれば、その上に重なるものは、更に欲に染まる
 
己が内に問うことをせず、積んで重ねてを繰り返せば、誰もが見上げる程に延びた成果の天辺から、予想もしない者が落ちて来る
 
そして上と下は出会って火花が起き、それを引き金に全てが灰燼に帰する。

 


不覚にすればショックなお知らせとなろうが、とてもシンプルで納得出来るメッセージである。

そしてそれは、確実に起きて、現実化しているのだ。

 

飛来する破壊神。

(2018/9/17)