《虚空の子》
不覚社会で何かと人気の「素質」。
素質があると言われれば、大して魅力を感じないものだったとしても、そう悪い気はしないのじゃないだろうか。
自らの内に何かしらの素質を見出そうとしたがる、又は見出して欲しがる動きは世に溢れている。
人は何故、素質を求めるのか。
傍から見て素質があると感じられる人にも、人気が集まるのはどうしてか。
素質があれば活躍に繋がり易くなり、活躍があれば、それは名誉や報酬に繋がり易くなると言う見方がある。
覚めぬ人々の間で素質は、才能や能力と一緒くたになっている。
不覚社会では有能であることが尊ばれるが、素質は世間一般で言われる有能さよりも自然に現れ、多岐にわたり、シンプルで静かだ。
賑やかな不覚社会上の損得を超えた理由も、素質を求める動きの中にはある。それは、
素質の奥に、それを寄越した虚空の存在を感じるから。
人気が集まる理由の中には、そこに人知を超えた力を感じると言うのも入っている。
現れた素質を活かして、虚空から示された役割を果たす時、人は表裏なく丸ごと満たされる。
これが人型生命体の、もともとしたかったことである。
表だけ整っていると他より優位かどうか、大きな成果が有るかどうかが気になり、比べ合いの競争を続けて、裏にある欠乏を誤魔化そうとする。
虚空の子として体験を行い、十全の未知を楽しみ、十分に味わい歓べるのは、意識が全体に帰還して母であり子、子であり母と分かってから。
只、覚めぬままでも未体験なものを楽しんだり、その味わいや歓びを微かに感じることは可能である。
はっきりしているのは、母も子も質において同じであり、大いなる存在が何処からかやって来て、小さき不覚者を抱き上げて大人にしてくれるのではない、と言うことだ。
素質を通して、全母たる虚空と御神体は呼応する。
覚めぬままの分割意識も傍からそれを感じ取り、それによって全体一つの流れに気づくことが起きたりする。
質素を本来の意味に戻し、それを天意からの愛で楽しむこと。
そこから現れた素質は、不覚社会が抱くイメージの上で有能に見えるものであっても、意識の優越には繋がらない。
自他なくば、自慢も出来ぬ。
(2026/5/5)
