《特では満ちぬ》
全体一つを実感すると、「自分」や「自分が属する方」だけが恵まれていると言う幻想で興奮することは出来なくなる。
そもそも何を以て「恵み」とするかは、状況や受け取り方によって変わるのじゃないだろうか。
今夜は縁日に行ったり、みんなで盆踊りするのが楽しみ。
そんな時に降る雨は、生憎の雨と呼ばれる。
植えてある作物が日照りで弱り始めている。
そんな時に降る雨は、恵みの雨と呼ばれる。
人間が求める時に欲しいものが現れると、それは恵みと呼ばれる。
だがご承知の通り、世界は人間の欲求に応える為に存在している訳ではない。
だから無理矢理に恵まれていることにしようと頑張る必要もないのだが、不覚社会はこのゲームが大好きだ。
人が恵みと見なすものは時に応じて、くるくる方向が変わって定まらないと言うのに。
覚めるとそのことは自然と分かるし、特別に恵まれたいと言う気持ちは生じようもない。
今より良い場へ行きたいとか、嫌な場を抜け出したいと言った気持ちも起こりようがない。
住まいや立場などの移動はある。
だがどれも、満足な場所から、別の満足な場所へと変わるだけだ。
満足である時、納得もしている。
覚めぬままである中で、実際は不満なのを隠して、いつか運命や神仏から殊勝な自分にご褒美が来るのを待っている人も居る。
彼らは得して満たされることを待っている訳だが、そうした目論見が必要ないのが、真の満足と納得。
「特別あなたにだけだよ」と言うご褒美の御恵みがなかろうと、満足と納得自体で歓びとなる。
それこそが、真の恵みではないだろうか。
それは誰かから手渡される訳ではなく、内側から溢れて来る。