《浮いてる存在》
エゴを持ったままでも何となくやり過ごせて来た、不覚社会の安全装置は既に外れている。
環境についても、日に日に厳しくなっているように感じる人は多いかも知れない。
環境が変化したことで影響が及ぶのは、当たり前に人間だけではない。
人間だと行える様々な対策を他の種は出来ない訳で、適応が間に合わなければ絶滅待ったなし。
多くの生き物が求めていることはシンプルだ。
育って、殖えること。
育つ為にも、殖える為にも、栄養は欠かせない。
生まれたから生きて、育ちたいから食べる。
実に自然なはずである上記の動きを、或る生き物がした時、人間にとって損になると、それは害と見なされる。
害をなす生物は害獣や害虫として、駆除されたりもする。
その生物が食べた相手が自分達と同じ人間だった場合、人は育てていた野菜や家畜が食べられた時以上の衝撃を受ける。
残酷さや悲劇性、恐怖感を強めてその出来事を取り沙汰し、再発防止を訴え、議論を戦わせる。
そろそろ、人間を食べかねない生き物が生活する場に、食べる為に行く訳でもない人が入り込むのはそもそもおかしなことだと気づく時だ。
特に食べられたくないのであれば、尚更。
気づくことで撒かれた小さな種は、素晴らしい進化を起こし得る。
例えば、やむを得ぬ用で山や川に出かけた時に、どんな動物が接近しても御神体が傷を負わない、新素材の装備を開発することに繋がるなど。
趣味で出向いて行って、しかも齧られたら死んでしまう状態は色んな意味で“軽装”なのだと、当たり前のことを知る時が来ているとも言える。
進化を待たず軽装のままで
「自然に触れる中で、ごく稀にそうした不運が襲うこともあるが、大多数は大丈夫なのだからそのまま」
と有耶無耶にして現状維持しようとする向きもあるかも知れない。
人間が持つ自然に触れたい欲は、それを目的としたツアーを企画開催する会社や、地元の宿泊や観光施設など様々な所を潤しているからだ。
これ自体は、良いことでも悪いことでもないが、奇妙なことは確かだ。
一方的に触れようとするだけで、「自然」として括られる山河や動植物にとって人間に触れられることが必要かどうかを無視している。
それは全く、自然とはかけ離れた状態である。
人だけ浮かび上がっている。
(2025/8/21)