あじ

 

エゴ自らが、つまりエゴが目覚めた状態になれると思っているのかも知れない。

 

こう気づいたことは、大きな発見だった。

 

何故なら、目を覚ますことを求める人々は、エゴその敵と見なしたりするからだ。

 

エゴ意識目覚め向かうのを遮り、不覚に押しとどめるもの。

 

 

そんな風にイメージしてエゴ戦い善行を積んだり修行するなどして“解脱”しようとする。

 

解いて抜けなければならないものと見なしているエゴが、何故目覚めた状態になれると思っているのか。

 

それは、エゴ目覚める意志があるからではない。

 

人によっては、目覚めたとされる人が受けている扱いが、エゴにとって魅力的だからである。

 

 

覚者を名乗る人々は、そうなりたい人々の間で信奉や崇敬の対象になることがある。

 

悩みがないことで、悩みある人々から

 

憂いがないことで、憂いある人々から

 

注目されることで、注目されたい人々から

 

羨まれることもある。

 

 

あなたのお陰で人生が変わった、道が開けたと喜ばれることもある。

 

羨まれたり尊敬されたり喜ばれたり

 

そうして相手の人生に影響を及ぼす

 

そんな姿は、エゴにとってたまらなく魅力的に映っても不思議ない

 

 

こうした“旨味”がある完成図をイメージして、そこに近づこうとするのも、またエゴなのだ。

 

何とややこしく、矛盾して、賑やかなことだろうか。

 

これぞエゴ、と拍手をしたい気分になった。

 

静か観察をする時、それはとても興味深く味わい深い

 

人間臭さも、の一つ。

 

なかなかの珍味と言えるかも知れない。

 

 

 

それも又、一つの役。

(2025/11/24)