感謝と巡り》

 

不覚社会に暮らす人々の振る舞いについて、時折とても不思議に感じることがある。

 

例えば、こんな姿を目にしたとする。

 

訪れた状況に苦しんでいる人が、感謝でそこを脱しようとする。

 

これは本当に、奇妙だ。

 

 

確かに感謝行動や実現をスムーズにするし、そもそも生きることの基本ではある。

 

不思議なのはそうした人々のしている感謝が、実際の感謝からは程遠いことだ。

 

手を合わせて、喜んで見せる。

 

そうしていながら、一刻も早くこの状況が好転することをひたすら待ち望んでいる

 

 

嫌いな客に対して、内心ではとっととお引き取り頂きたいと思いながら作る笑顔って、感謝だろうか。

 

現在起きていること

 

「どこかの誰かから押しつけられたこと」

 

「自分の至らなさで招いていること」

 

と、見なして邪魔にすると、そこから学べないし、消化昇華進まない

 

 

上の括弧で括られた部分は、「こと」を「不幸」に置き換えられる。

 

「どこかの誰かから押しつけられた不幸」

 

「自分の至らなさで招いている不幸」

 

起きていること不幸呼ばわりして、そこにばかり注目していると、が注がれることで、当たり前にそれは繰り返される

 

 

虚空は不幸も、も定めない。

 

全てを天意からの愛で観察している。

 

天意からの愛観る時、見たいところだけを見るやり方ではなく、真っ直ぐ包み隠さず向き合うことが叶う。

 

すると巡り合ったものがどんな機会として表れているか、自然に分かって来る

 

分かると同時に「虚空が観察する大きな流れの中で、この端末と言う自らに巡って来たこと」を味わい楽しみながら消化昇華する湧いて来るのだ。

 

感謝は、厄を掃き出す箒にあらず。

(2025/11/17)