《急かすもの?》
前回記事を切っ掛けにマイペースの謎について更に深く意識を向けて、分かったこと。
それは不覚社会に「速ければ速いほど良い社会になる」イメージが存在すると言うこと。
「スピード」のアップが、スマートとかスムーズとか言い換えられることで、何か正しくなるような雰囲気を纏う。
そこには、進化とは進みが速くなることだと言う認識も隠れている。
正しくなるような雰囲気、なので実際正しいかどうかは誰も分かっていない。
正しい方向に進んでいそうな、と言い換えることも出来る。
人は何故か途中であることを好む。
全て空であると言う、種明かしを拒む動きなのかも知れない。
確かに、行動する中でそれぞれのエゴがぶつかり合って流れが変わったり、膠着状態になったり。
「マイ(私の)」と言う意識が強いと、モノコトの運びが遅れることは多い。
その一方で、エゴは不自然なハイペースも作ったりする。
場の決定権を持つ人に追い立てられて、他の大勢は命じられたことをがむしゃらにこなす動きを強いられる。
不覚社会では珍しくない動きである。
速かろうと遅かろうと、ペースを自然ではない状態に変えるのがエゴだから、そこに特に不思議はない。
マイペースの復権と言うことだろうか
「ゆったりのんびりマイペースで行こう!」
等、マイペースを幸せと結びつけて良いイメージを作り上げる人もいる。
そこには「急かされる様な気がしても従わなくて大丈夫だからね」と言う慰めや励ましや癒しが織り込まれている。
裏を返せば、やはり急かす雰囲気は不覚社会のそこかしこに溢れているのだ。
この「急かすもの」とは一体何だろうか。
次回記事ではそれについて書かせて頂くことにする。