《岩と水》
天と地の間で真っ直ぐに立ち、全身で“観る”時。
歓びと共に、その行動は自然と全体一つの流れに沿って進む。
頑張って善い行いをしようとしなくても。
気を配って徳を積もうとしなくても。
どんな風に流れるかは、その時々に合わせて様々に変わる。
流れは全体勢いを増しているが、時と場所によって緩やかに変わったりもする。
だから面白い。
柔軟に、どの方向にも動けると、この面白さを十分に味わうことが出来る。
「良い流れに変わって欲しいけど、慣れていて安心なこの場所から動きたくない」
それは無理な話である。
岩で居続けながら、水になりたいと願う様なものだ。
それも、温度や速度や透明度が保たれた、良い感じだと想像出来る水になりたいと。
「どうせ駄目ですよね」と苦笑いを足して、無茶に苦茶を足した無茶苦茶セットにした上で、やっぱり願い自体は手離さない。
不覚の分割意識は、この様に変てこな離れ業をやってのけている。
慣れていて安心な“この場所”とは住まいに限らない。
立場もそうであるし、特定の方向に傾いた物の見方や考え方もそうだ。
物理次元は常に点滅し、流動している。
どんなに気に入って、好ましい感じに整えているものだろうと、表に現れる現象を手の中に握り続けることは出来ない。
それを認めると、今この時を感謝して深く味わうことが出来る。
知るだけでは不十分だ。
はっきりと、認めること。
これも又、全体一つの流れに沿った、天意からの愛による動きである。