《大人の世》
国の方向性について、一人一人が意志を示す機会を終えた先日。
全体一つだったと分からぬままであれば、どちらに向かおうとも袋小路を出ることはない。
様々な動きを眺めていて、「あぁこうやって全体で少しずつ大人になって行くのか。素晴らしいな」と頷いた。
国が面倒みてくれるかわからない、となれば必要に迫られて自活力を育てようとする流れになる。
全体で見ると少しずつ育つ。
細かく見ると、育てることを実行する者が居れば、行動に移さず内心に不安を飼い続ける者も居たりと、道は分かれている。
変わる力があるかどうかは、愛する力があるかどうかに通じる。
自他ひっくるめて、この世界を愛する者は、自己憐憫で嘆かないし、自己犠牲に酔うこともない。
自活力が育つ流れが、何故素晴らしいか。
その自活力には、御神体に無理をさせないことも含まれるからだ。
馬車馬のように働いて体を壊しても、社会が保障し国が尻拭いしてくれるはず。
そう言った乱暴なスタイルで人生を進めることが難しくなっている。
旧スタイルで歩んでいた人々の人生は、どんな場所に行き着いたか。
人々によって日々量産される画像や映像で膨大な記録が出来ていることから、それについての確認は容易い。
どんな場所に行き着いたかの問いは、別の表現をするなら
「みなさん幸せになりたくて色々なさったようですが、実際なれたのでしょうか」
と言うことだ。
優越や獲得の興奮を繰り返して人も羨むような人生を送ったとして、その終わりに何処へ辿り着けたろうか。
御神体が自然なペースで活き活きと活動し、その内容に満足していれば、新世界の後押しは求めずともやって来る。
と言うか、御神体をないがしろにして進もうとすることは、陸で泳ごうとする位に困難な道となる。
それを強引に押し進める力をつけようとして、興奮材料をドーピングのように求める人々も居る。
ご承知の通り、それにも必ず限界が来る。
世の中が波荒くなったとして、幾度も申し上げているように、それは真に大人と呼ばれるに相応しい人々が誕生するにあたっての陣痛なのだ。
現れる、大人の世。
(2026/2/12)
