《地の味》
夏の間、祭の様にそれぞれの力を伸ばしきり、枯れ始めていた近くの空き地。
先日も眺めていたら草刈りの人が来て、夜また見たら地面が丸坊主になっていた。
黒々とした土は、まるで初めからそこに何も居なかったかのように静かで、それでいて別に寂しそうでもない。
獲得も喪失もなく、常に只、そうであるだけ。
数日の後、ポツポツと見え始めた小さな草の芽が、一週間もたたずにやわらかな緑となって地を埋め始めている。
また新しい、賑やかな祭の始まり。
こうして草木が育まれるのを見る度に感心するのだが、地の力とは凄いものだ。
地は味わい深く、こんなにも活き活きとしている。
そして常に今を生きている。
それなのに地味なことが、軽く見られたり時には嫌われたりまでするのは何故だろうか。
地と言う字の左にある土は硬く土台になる確かなものを示し、右にある也の方はうねうねぐねぐねと、しなやかにやわらかいものを示していると言う。
確かでありつつ、柔軟。
領土拡大に分割意識達がどれだけ躍起になっていても、盛りの時期を過ぎて、盛者必衰の理などと言うように失速して去った時。
地はそれを惜しまないし、かと言って喜んだりもしない。
誰が立とうと、誰が育とうと、地は地である。
一等地とか僻地とか、地は評価にさらされたりもするが、地の方では生まれるものを何ら評価しない。
これは植えるなとか、これは生えるなとか、選別したりしていない。
勿論その土地によって向き不向き、役割分担はある。
砂漠にも、そこに適した植物が育つ。
だが食べたり物作りをしたりと、暮らしに役立つ材料が作れないと、人間はそこを不毛の地と呼んだりする。
それも地は全く気にしていないのだ。