《何をするにも》
何をするにも、意識だけで行うことは出来ない。
横になって動かずに、考えを巡らせるなどしている時、不覚の分割意識は「自分だけが何かをしている気」になったりする。
だが、その間にも御神体は呼吸をし、消化をし、新陳代謝もしている。
いきなり息が止まったら、何かを考えるどころの騒ぎではない。
歩いたり、触ったり、食べたり、笑ったり。
泣いたり、転んだり、排泄したり、眠ったり。
分割意識と御神体の協力で出来ることは、数え切れない程ある。
分割意識の知らぬ間に御神体がしておいてくれることも、数え切れない程ある。
御神体が健やかであることについて、分割意識から何を出来るのか。
そこに意識を向けて気づいたことを日々実行して行く。
すると、分割意識と御神体と言う夫婦の息が益々合って来る。
そうしている内に意識は磨かれ、これまで分からなかったことについて「あぁ、成程」と深い理解が及ぶ様になる。
神経症気味な妄想と異なる点は、「こうかも知れない」「ああかも知れない」とイメージがあちこちに飛び火しないこと。
その想像が不安から生じていないことである。
静かに軽やかに、納得がやって来る。
なので深刻にならないし、誰のことも責めたりしない。
御神体に感謝していると、どの御神体も他の御神体のことを嫌ったり憎んだり責めたりしていないことが分かる。
御神体同士はとてもシンプルに、天意からの愛で互いに向き合っている。
上下関係や、優劣、好き嫌いをそこに持ち込むのは意識であり、それは不覚ならではの体験を長い年月可能にして来た。
バリエーションが出尽くしてしまったので、こうした不覚体験の勢いは萎んで行くことになるが、それにも感謝である。