《一なる歩み》

 

やわらかな全体感覚の浸透を経て、ペースからマイの枠が外れた時。

 

起こるのは、「何でもなかった」と言う気づき

 

誰のペースも、何程のものでもない。

 

王様だろうと為政者だろうと己だろうと同じことである。

 

 

周囲のマイペースについても、どれにせよ何でもないと分かると、

 

咎めるでもなく

 

引きずられるでもなく

 

それはそれであるだけと、認められるようになる。

 

 

否定でも肯定でもない中立な認定なので、何にも縛られない

 

同時に何かを縛ることも勿論出来ない

 

ほんの僅かだろうと相手を縛りたくなる欲が残っているなら、そこにはマイの枠も残っている。

 

から自由になると全体一つの流れの中で今の今“自ら”と感じるこの端末こう言う役をするのだなと、自然に分かって来る

 

 

全体一つの流れは、個の都合に合わせて動いたりしない

 

覚めぬままあの手この手で我田引を目論んでも、流れに合っていなければさっぱり水は巡って来ない

 

先読みしてそこに我が田を動かし待ち構えても流れが大き過ぎて飲み込まれることになる。

 

全体一つの流れにとって、我が田は余りに小さ過ぎるからである。

 

 

今の今はこの役分かる時、進むペース自然御神体に合ったものになる。

 

早くもなく、遅くもなく。

 

早いも遅いも何かとの比較で生まれる感覚なので、比較がなければ出て来ようがない

 

何とも比べない、只いのちが点滅する輝き

 

それがマイ超えた全体一つのペースである。

 

一なる歩みを押し留めるものなし。

(2025/9/11)