《配を聴く》
この所、改めて御神体と共に在ることの素晴らしさ、物理次元の面白さを深く感じているのだが、感じ方に不思議な変化が訪れた。
今、御神体の動きと共に起きていることを、つぶさに観察することが増えたのだ。
今、今、今…と状態が変わって行くのが、たまらなく面白い。
腕を上げる。
拳を握る。
脚を曲げる。
一つ一つの動きを、ゆっくりと味わいながら観察する。
そして、たった今初めてそれを見た様に(実際それは常に唯一無二な初めての瞬間なのだが)驚く。
「わぁ!」と声をあげてビックリするのでなく、静かな驚きが波のように広がる感じである。
こんな途方もない精妙さがあるものか。
何と面白いものか。
そうする機会が増えるうちに、御神体に感じていた精妙さが溢れ出して範囲が拡がった様に、物理次元全体にも驚く様な肌理細かさのあることを深く感じ始めた。
雨の音を、耳ではなく全身で聴いていることに気づいたのもその頃である。
覚めない状態で人々が使う言葉を借りるなら、「気配を察知する」とでもなるかも知れない。
「ああ、こんな感じに聴こえますね」と、ザアザアとかシトシト、パラパラと言った擬音で表現出来る聴こえ方ではない。
それは目を問わず耳を問わず、皮膚を問わず、どこからでも聴こえて意識にまで浸透して来る。
ふと、雨だけではなく、そのうちに昼や夜を聴くことも出来るだろうと浮かび、成程と頷いた。
夜や昼を聴く、これだけだと何のことやら訳が分からないかも知れない。
だが、夜の気配と言う表現は耳にしたこともあるだろう。
この、気配を聴くのだ。
気配は空間に満ちている。
それは人がする気配りとは、全く異なる静けさでそこに在る。
覚めぬまま人が行う気配りは「ああ見えたい」「こうして欲しい」等と言った意図が混ざって、結構ガチャガチャしている。
静かな気配を意識と御神体が共に聴く。
御神体にはずっと聴こえていて、それにようやく意識が参加し始めただけなのかも知れない。
賑やかな昼より、夜の気配の方が聴き易そうである。
気を配するものとは。
(2025/5/8)