《趣の味》
弦斎作品を観察すると、作中で特定のキャラクターに作者自身を投影していることが多い。
『日の出島』では幸福先生、『食道楽』ではお登和嬢の兄である中川がその役割を果たしている。
幸福先生は自分の意と妻の意が同じであるのが当たり前の様に、幸福な百の趣味について話しているが、単なる一作品の一登場人物の言葉ではなく、ここには作者個人の結婚観が表れている。
幸福先生こと弦斎先生が、自分の妻に与えたいとした百種の趣味。
どんなものか並べて見ると、理学上の趣味、風流韻事の趣味、心理学の趣味、審美学の趣味、工業の趣味、政治の趣味、天を眺めたら天文上の趣味、風邪をひいたら医学上の趣味、物を食べれば衛生学上の趣味、寝ては夢の現象を研究する趣味、起きては新鮮な空気を呼吸する趣味等々。
どうも余暇を充実させるホビーと言った雰囲気はない。
寝ても覚めても、趣味趣味趣味。
令和期の現在、未婚のお嬢さん方にこの趣味一覧をお見せしたら多分、
「勘弁して」「普通に無理」「は?」
等のお言葉が返って来そうである。
明治期だって諸手をあげて「素敵~!」なんてことにはならなかったろうが、どんな反応だったのか。
多嘉子嬢との縁談がまとまった頃に、理想的な夫人を得た喜びを爆発させて『日の出島』にてこの下りを書いたそうで、浮かれMAXなのは置いといて、こうした趣味は夫人の、それこそ“趣味に”適うものだったのだろうか。
沢山並んじゃいるが、どれもこれもが己で思いつく趣味である。
自分が良いと思ったものを相手に与えることが幸福にすることだし愛することだと、幸福先生は捉えていたのだろうか。
範囲指定を一切せずに、
「君がしたいことを僕も一緒にしてみたい。どんなことに興味があるの?」
と、聞いたりはしないのだろうか。
又、趣味によっては一人きりで向き合うのがベストなものもある。
「君が集中する邪魔はしないよ、じゃあ後でね」
と、一旦ばらけるのが必要な場合だってあるんじゃないだろうか。
どうにも幸福先生の言葉には、趣味についてと言うか、感覚についての認識のズレを感じる。
弦斎先生の言う理想の夫婦が、覚めた状態の分割意識と御神体のことであるなら、感覚を共有することに不思議はない。
只その場合は、御神体の感じているものについて分割意識が集中を向け、共に感じる必要がある。
俺が教えるから付いておいでよ、ではないのだ。
キレッキレであった時の弦斎先生は、「神経敏捷で霊感あるかと思ふほど第六感の働く人」だったと、『婦人世界』を出版した会社の社長が書き遺している。
神経の鋭さだけで虚空や分神についての情報をキャッチする人が出て来ることがある。
弦斎先生の歩みを観察してみると、彼もそうした人々の一人であったことが分かる。
キャッチはすれども、覚める前なので自我のお気に入りBGMに掻き消されて切れ切れとなり、手元に記せてもごく断片的な情報となる。
それを継ぎ接ぎするのに使うのが個人の趣味なら、相当いびつなものが出来上がる。
何しろこの人物と人生、情報がやたらとあるので記事もどんどん膨らんで来るが、お伝えするだけの理由がある。
もう少々、弦斎先生の追ったもの、その背後にあったものについて書かせて頂くことにする。
興味も趣味も自由が基本。
(2023/11/20)