《無駄なもの?》
どんどん変わり続ける世界を観察していると、一見関係がなさそうなモノコトも全体一つに向かう、必要な動きであることが分かる。
「何だってこんなことが」と人々が嘆く、許し難いとされるモノコト。
許せないとなる程ではないにせよ「それ必要?」と無駄扱いするモノコト。
許さなかったり、無駄かどうかと価値を測る判定を行うのは、理想や好き嫌いと言った偏向が意識の中にあるからだ。
理想もなければ、都合もない。
そんな状態の意識を通ると、「あぁ、これは全体の中でこんな風に役立っているのか」と、驚く様な気づきが自然に生まれたりする。
例えば、不覚社会では様々な国と地域で、男女平等が求められて久しいが、中々実現しない。
それは特定の分からんちんが居るからではない。
多くの人が己の「都合」を挟んだまま「平等」を叶えようとしているからだ。
鍋敷きかコースターでも御想像頂ければ分かるかも知れないが、底の全部ではなく、一部にだけ何か挟まった状態であれば、当たり前に乗せたものは傾く。
平らかでもないし、等しくもならない。
表向きは「平等」の言葉を掲げても、底の部分ではそうやって傾けているので、ガッタンゴットン揺れて争いが絶えない。
2025時点では女性側を低く扱っているとされる「不平等」が取り沙汰されることが多い。
身体的な力の差で危険にさらされていると言う訴えも日に日に増えているが、近年漸く妻からのDVについて声をあげる夫も増えて来ている。
夫が乱暴なのでも、男が乱暴なのでもなく、男女問わず暴力に訴える人間が居るだけなのだ。
女性形の端末にも勿論、暴力的なプログラムは入っている。
単なるプログラムなので、作動させるかどうかは人それぞれ。
このことに気づき認める必要から生じている動きである。
「丁寧さや慈悲があるのと同じに、乱暴さや残酷さだって、男女どちらの中にもあるよね」
と、分かる時、無理に「自分(側)じゃない方」を敵にして憎んだり怖がったりすることは難しくなる。
難しくなった人が、「なーんだ元は全部同じ虚空か」と腑に落ちて、比較ゲームから一人抜け二人抜けしてシンプルになる。
世界はそうして新陳代謝を活発にしている。
無は駄も愛す。
(2025/7/3)