《問いと願い》
全体一つの流れに沿えば、目を覚ます人々が次第に現れることに何の不思議もない。
夜が明けるのと同じく、それは自然なことである。
只、夜明けとは何だろうと言う内なる問いは、覚める際に必要。
覚めるのが自然だからと言って、全母たる虚空は強制的に瞼をこじ開けたりしない。
「遅刻しない様に、起こしてよママ」
と、文句を言う人は母と子のうち、子の視点しか開いていないのだ。
全母性を開くことは、母としての観点を育てることでもある。
そして子であり母、母であり子と言う謎が解け、「な~んだ同じだ」と腑に落ちた時、物理次元は本当に美しく、味わい深く、見事だ。
本日は世の人が星に様々な願いをかける七夕の日。
既に申し上げたこともあるが、問いと願いは異なるもの。
にもかかわらず、何でか願いを問いの代わりにしようとする人は多い。
世の人が抱えている
「幸せになりたい」
「人より恵まれたい」
こうした願いがあるだけでは、覚めることは起きない。
意識の中に問いがある時、行動として全体へ向ける天意からの愛は、身を削るような犠牲に変質したりしない。
素直に愛のまま放出されて全体を満たす。
そして、問いある者のもとに届いた虚空からの答を気づき易くする、本人の足元を照らす光にもなる。
願っちゃいかんと言う訳では勿論ない。
だが問う時、ああしてくれこうしてくれと言う様々な願いは、自然と意識されなくなるのだ。