《はかれぬもの》
本日は端午の節句。
こどもの日とも呼ばれている。
国民の祝日としての説明には、
こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
と、ある。
母に感謝と言うのは生み育てた人であるからだろうが、父についてはノーコメント。
父が育てている場合だってあるだろうし、まとめて「親」に感謝で構わないんじゃないかと言う気もする。
国民の祝日に関する法律を作った当時は、出産から育児まで母が担当するのが当たり前だったのだろうか。
人間が全く気づいていなくとも、「全母たる虚空へ感謝する」ことの大切さが知らぬ間に、法として掲げられているとも言える。
味わい深いことである。
子供の人格を特別な日に重んじようと言うことは、普段は軽んじる方向に傾き易くなっているのだろうか。
人格を重んじると言うのなら「子供」と一括りにする前に、ひとりひとりを小さな人として対等に向き合う必要がある。
そしてそれは別に毎日でも構わない。
何も特別なことではないからだ。
対等に向き合えば「重んじ」と言う文字通り重い表現なしに、小さな人の幸福とは何かをご本人に尋ねたり、傍から見て気づいたり出来る。
幸福をはかる必要も特になくなる。
時間を計って目指すこともないし、
メジャーで測って用意することもないし、
おもんばかることも要らないし、
はかりごとの出番もない。
ふと気づいた。大人達が子供達の幸福をはかることを理念として掲げる時、そこには
見えざる全母に向けての、自分たちの幸福をはかって欲しいと言う願望
これが、隠れていないだろうか。
人型生命体は確かに虚空から生み成されていると言う意味では「子」になるが、質においては同じ。
母であり子。
子であり母。
既に幾度も申し上げて来たこのことを真に理解し腑に落としていると、幸福をはかろうとも、またはからせようともしなくなる。
そもそも、はかれるものでもないことは、皆様ご承知の通りである。
はかり知れぬ、無限の虚空。
(2025/5/5)