《食べっこ遊び》
舞台の世界では演技が優れて他の俳優を凌いでしまうこと、大体は脇役が主役や大物を凌ぐ時に言うそうだが、それを食うと表現したりする。
ビジネスの場でも、「新規参入の会社に市場を食われる」と言った使い方をするらしい。
その他の現場でも、
食うか
食われるか
こう言った表現は不覚社会の中でよく使われて来た。
引っくり返される。勢力負けする。圧倒される。様々な時に「食われる!」の感覚は発生する。
食うか食われるかに一騎打ちの緊迫感がある一方、「食い物にする」と言うちょっと違った食べ方もある。
こちらには食べる側に死ぬか生きるかの危機感はなく、入り込んで吸血したり、飼っておいて好きな時に食べる感じ。
気づかなかったりで無抵抗、若しくは抵抗しても敵ではない相手から養分を摂取する。
「食い物にする」について調べて確認したら、自分が食べる為の物にする意から、自分の利益の為に他人や物を利用することと書いてあった。
捕食より寄生に近い感じがするが、いずれにせよ自他を分ける強い線引きがないと、何かを食い物にすることは出来ない。
それにしても謎である。
「だから何が食べられるのさ?」
と、問いを放ったら上から答えが返って来た。
“生きる力。”
演技で食われた者は、役者としてその舞台で生きる力を。
食い物にされた者は、主体的に人生を生きる力を。
食われた様に感じるのだと言う。
そしてそこには旨味や成功、繁栄の元となる活力は定量だと言う見方があるらしい。
「成る程ね」
食い物にする行いも少し遠回しなやり方であるものの、結局は食うか食われるかの範囲内の動きだったのだ。
定量の中での奪い合いである。
しかし、生きる力を定量ある有限だと見なすなら、何でそれを増やしたい欲望だけ無尽蔵なのだろうか。
御神体の腹には満腹と感じる適量がある。
大食漢と食の細い人とを比べたとしても、体格に多少の差があろうと人型生命体としての食べる量が極端に変わることはない。
ゾウの一日の食事量は200キロから300キロに及ぶそうだが、大食漢でも大富豪でも、どんな大人物だろうとそんな量は食べられない。
だが、食うか食われるかの勝負に満腹はないし、食い物にする行いにも満腹はない。
あるのは次なる飢えと満たしたい欲。
霞を食うのは仙人らしいが、食えば食う程腹が減る霧の様なものもあるのかも知れない。
食ったり食われたりする世の中から頭一つ抜けた存在であろうとしたのか、WINWINと言う表現も出て来た。
と言っても、これは「取引をする双方に利益がある」という意味なので、取引をする関係は味方同士であるとして互いに利益を出す、そして他から食べると言うことなら、多少スマートな感じに見た目を整えた捕食であることには変わりない。
勝ち続けたい、負けはなく勝ちだけにしたい。
自他を分けて齧りつく食べっこ遊びをしながら人々がそう願ったとしても、元は全て空であり本当は勝ちも負けもなく、敵も味方も居ない。
空から始まり、ここまで様々な体験を出来たのだ。
勝ち負け関係なしに、只々万々歳ではないだろうか。
食べ尽くせぬ世界。
(2023/5/11)