《覚を模す》
以前、「推す」と言う動きについて「どの方向に?」となった時と同じく、押忍の中にある「押す」にも「どの方向に?」ともう一つ、「何を?」と不思議に感じていた。
「押して忍ぶ」には、武道を修める人々に求められる精神「自我を抑え我慢する」の意味があると言う。であれば、
押す対象は自我
そして方向は
下もしくは内
となる。
飛び出ようとする自我の主張をぐっと押し込めて我慢し、耐え忍ぶこと。
そうした上で男達が、個を超えた目的を果たす為に修練を積む。
「主張を押し込め…男達が…目的…修練…」
バラバラな情報パーツが意識の中で見事に合わさり、理解となって「おぉ!」と驚いたのはこの時だった。
「そうか!そうやってチャレンジしてみたのか」と頷いた。
既にお気づきの方も居られるだろう、これは分割意識が目を覚ます運びを模したものである。
「おはようございます」が簡略化されたものが押忍だと言うのは、本当に味わい深い。
人類はこうやって真理に近づこうともして来たのだ。
模したと言っても勿論、知っていて真似た訳ではなく、意識が薄っすらと感覚的に「これ必要だったよね」と気づいていることに沿って動いたら似たと言う感じ。
目を覚ますにあたり必要なこととは、男性性を担当する分割意識が、個の都合を手離し中立な観察をして意識を磨いて行くこと。
押忍のやり取りに込められた、男達が自我の主張をぐっと押し込めて我慢し、耐え忍んで道を行こうとする動きをここに重ねる。
すると、本来必要なことと実際に行って来たこととの微妙な違いが見えて来る。
自我の主張を抑えただけではモノコトの消化や昇華は出来ないし、頑張って耐えることと、それによって得られることに酔って夢中になると脇道に入って行く。
勢い良く放たれる「押忍!」だが、「我慢!我慢!」と声高に行かないと中立を目指せないとは、余程強烈な自我の声があるのだろうか。
武道を修めてひとかどの人物になりたい、とか。
頑張って耐えることで抑え込んだエネルギーが噴出して、「押忍!」の音の大きさを生んでいる可能性もある。
タマゴが先かニワトリかみたいになるが、いずれにせよ押忍はそっと出て来ることはなく、かなりの派手さをもって空間に飛び出て来る。
押忍を言う目的として、精神性を高めて非日常を意識する、自己鍛錬、積極忍耐など、何と言うか“強さ”に傾いた言葉が並ぶ資料を眺めながら、中立とは何かと言うことに改めて向き合った。
当たり前だが中立は、強いこと、立派なこと、優れたこと、正しいこと等に偏っていない。
中立は、覚めぬままの分割意識が勝手に思い描いた理想を叶える為のものではないし、その理想像に自制を使って近づく為に使うものでもない。
資料によれば「押忍!」と気合を入れることには、自分を高める儀式のような面があるのだと言う。
儀式めいた押忍の精神性に触れることによって、日常や現実への尊敬の念を忘れないとも、書いてあった。
不覚のままでする尊敬は、対象をやたらと持ち上げる。
つまり、離れた存在にする。
日常や現実を自身から遠く離すのではなく、一体となって愛すること。
只、愛であること。
目覚めることを意志しているなら、必要なのはそちらの方だ。
「押し込めて忍ぶ我慢を、大声で放つ」
と言った訳の分からない奇妙さも含めて人々が楽しんで来た、目隠ししたまま目覚めを模するゲームは既にその役割を終えている。
人型生命体が物理次元で様々に表現する愛の現れには、賑やかさや威勢の良さが感じられるものもある。
けれどそれらの内に満ちる愛は、
そして愛を支える虚空の天意は、
常に、静かだ。
押さない駆けない喋らない戻らない。
(2023/3/27)