《至福と興奮》
目が覚めて全体一つの感覚記憶が蘇ると、幸福と興奮とをごちゃ混ぜにしている不覚社会の姿が明確に分かり、それを中立に観察出来る様になって来る。
「こうふく」と「こうふん」と言う、混ぜっ返し易い二つの差も明らかなので、まして常に在り続けている至福の感覚と、世に泡の様に浮き沈みする興奮との違いは確認の必要がない程明らかである。
雑に片付けている訳ではない。
生きながら「手があるな」「足があるぞ」「目鼻口があるわ」等、確認することがないのと同じ。
確かめずとも、それはそこにある。
物理次元に有る者としての、分割意識と御神体。
その内にも外にも、至福の感覚は在り続けている。
覚めてからはずっと“有りて在るもの”として自らを認識している。
有るだけでなく、在る。
そして至っている。
何処にも行きも帰りもしない所に。
福に至ると、世界の見え方や観え方、感じ方つまりは観じ方も、それまでとはまるで変わって来る。
不覚者は差異を好む一方で、差異に苦しんだりする。
特別な才能が発揮されるのを見て興奮したりする一方で、
隣の芝生の青く見える感じに惨めさをつのらせてみたり。
だが差異を分かる力は優劣の評価付けから離すと、単なる「これはそれとは異なる」と分かる力である。
至福と興奮との違いについて書いてみることで、この差異を分かる力を使い「興奮じゃない方」として、不覚のままでもある程度至福についての理解を深めることが出来るかも知れない。
そう気づいたので、本日記事にて少しそれをしてみることにする。
大事なのが、「じゃない」を「間違っている」「駄目だ」「未熟だ」等の低評価に結び付けないと言うことである。
より良くなりたい癖をつけている意識は、あっという間にそこを繋げがちで、慣れきっていると「それの何が悪いのさ」とまでする。
そうした方はもう殆ど当宮にお越しになられていないだろうが、ちょっとその癖が残っているなと感じたら次の一文を集中してお読み頂きたい。
differentとbadって同じか?
さて、片付いた所で至福の興奮と違う所について申し上げる。
興奮には材料がある。
素晴らしい栄誉、華々しい勝利、とんでもない記録、神の境地かと思える程の才能。
はたまた、
涙を絞る悲劇、無茶な我を通す非道、目を覆いたくなる程の惨状、迫り来る破滅の恐怖。
意識は「こっち好き!」「こっち嫌い!」と選り好みしてキャーキャー反応するが、どちらにも興奮はしている。
そしてどちらにも中毒になる。
そうしたことと至福は関係がない。
興奮の泡がぷかりぷかり浮かんでは消えながら、浮世の波風が行き過ぎるのを、至福に在る者は良いも悪いもなく観察する。
点数はつけられないし、
いちいち拾い上げたりも出来ないけど、
それぞれ精一杯やりたいことをやって、
行きて帰らぬ一度きりの流れを楽しんで。
そう言ったことしか浮かんで来ないので、そのまま祝福を送り、観続けている。
幸福と至福について面白いビジョンがやって来たのでご紹介する。
一体どこまで続いてるか見当もつかない広大な空間に、上にも横にも見わたす限り棚が並び、ギッシリとプレゼントが詰まっている。
まるで納期直前のサンタクロースの仕事場。
そこにあるプレゼントには「より良いもの」「そこそこ」「ちょっと落ちるもの」「残念賞」と言った様な優劣がない。
全て同じ歓びの素。
プレゼントの一つ一つが幸福、そしてそれらが全て納まっても一杯にならない空間が至福である。
不覚の分割意識はプレゼント達の中で、好ましく感じる派手な色の包装紙がかかったものだけを「幸福だ」と感じている。
だが、並んでいるプレゼントの包みは、ありとあらゆる色を使っている。
送られるもの、受け取られるもの、受け取られないもの。
それら全てを、愛と祝福で観る空間。
そこに「並べたくないプレゼント」は、一つもないのだ。
素晴らしき光景。
(2021/11/15)