《自惚れ懸想》
不覚から覚へ移行するのを阻むものの一つに、思い描いた自己像である「私」への強い関心が挙げられる。
目が覚めて全体感覚が蘇る所まで行くと、起きることを観察している時、それが「私の」かどうかや「私に」とってどうかと言う点に、関心が行かなくなる。
宮司を名乗る“これ”にとって私とは、「あなたが」「○○さんが」と言われた時、会話上の目印とする為にちょいっとかぶる帽子みたいになっている。
はいはいっと。
それも、不覚バリバリの人々とのコミュニケーションをする、「私」と言う語を使わねば話が通らない場所についてだけの話である。
お話が終わればワタシ帽子は脱げ、誰でもないものとして動き出して、自由に見たり聞いたり味わったりをし始める。
お目にかかる機会のある方々の様にものの分かった、まともなことを真っ直ぐ受け取るセンスのある人に向けては素直に「“これ”にとってはですね」と、自らを“これ”と呼ぶ表現を取らせて頂いている。
自らを指して「私」、とすることが悪い訳でも誤りな訳でもない。
だが、現状「私」と言う語に課せられている役割は、エゴがぶ厚く塗されて本質から大きく外れたものになっている。
それ故に、私と言えば言う程全体性を失うことになり、絶対に覚めないぞキャンペーンを助長する結果となっている。
このキャンペーンは物理次元全体に作用する力は持っていないので、覚めないぞと頑張る人がどれだけ居ても場が保たれる訳では勿論ない。
世界は、覚めたくない人々を待っちゃいない。
無理だろうと鼻で嗤おうが、泣き喚いて現状維持を頼もうが、時は待たないし場も待たない。
全ては、思考や感情を超えた真の本能によってすくすくと順調に、進化と言う成長をする。
して来たし、しているし、して行くのである。
そんな中で不覚の分割意識達が座り込みを決め込んでも、覚めたくない側の気休め以上の意味はないのだ。
覚めなきゃ覚めないままで、これがワタシだとする形がばらけるタイミングで、全体一つに還り、以降は現れない、只それだけである。
魂は不滅と言ったお気に入りフレーズを使って、都合の良いセーブポイントみたいなものを上手いことこさえて持ち越そうとしても、それに対する応援もない。
本道を行く方々には皆いずれかで、誰でもないものであることを恐れず受け容れる者でなければ、その先を歩むことの出来ない局面が訪れる。
先に行けない私、を悲しむ。
まだまだな私、を不甲斐なく思う。
それでも頑張る私、を応援する。
かつての私、の苦労に思いを馳せる。
これからの私、の明日に期待する。
そうした私関連のことを延々繰り返す人は、作り上げた「私」像に恋をしている。
ピュグマリオンが理想の美女を作り上げる以上の入り組み方をして、様々な癖を足して引いてするのを繰り返して作った、駄目な所も可愛い痘痕も靨な自己像。
“お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ”と言った所だ。
恋の病に薬なしと言うことでそうした人が居られても何もすることはないし、特に治そうともならないが申し上げられることはある。
その恋は進化や成長を生む恋だろうか?
切りない愚痴や惚気話は、人を大人にはしない。
あなたのその恋は、あなたを大人にしただろうか。
こういう時だけ「あなた?わたしは居ませんでしょう?」とお惚けて、ほとぼりが冷めてからまた惚気るなんて誤魔化しをしないなら、ちゃんと向き合える問いである。
既に自惚れからご卒業されたグッドセンスな皆様におかれましては、この期に及んで私贔屓の人々の話に付き合う必要はないとご理解頂きたい。
ほれたはれたの繰り返しに切りがないことは、世間の恋煩いを見ても十分明らかなのだ。
恋は愛の代わりにならぬ。
(2022/8/18)