《能の爪》
「…不思議だ」
何となく使っていても、ちゃんと向き合うと不思議だなと感じる表現への「何故?」。
そこから始まる気づきや発見は、予想もしない理解をもたらす。
先日ふとした拍子に意識に舞い込んで来たのが、
“能ある鷹は爪を隠す”
改めて意味を調べて確認すると、
「本当に有能な者は、偉そうなことを言ったり、むやみに能力をひけらかしたりしないというたとえ」
と、書いてあった。
何だか謙虚な「良いもの」について言っている感じがする。
これに続く解説には、
「裏を返すと、たいした能力のない者にかぎって、ふだんから偉そうなことをいったり、弱い者には力を誇示したりする、ということになる」
とか、
「優れた能力を持つ者が日常生活では慎み深くふるまうことを称賛する一方で、空いばりする者を暗に批判する表現ともいえる」
とあった。
「爪を隠す」というのは、爪が外に見えない様に隠すのではなく、むやみに爪を立てて相手を威嚇しない意味なのだそうだ。
称賛等の言葉もある様に、やはり肯定的な意味で良きこととして使われている。
鷹が爪を出すのは、獲物を狩る時。
であれば、慎み深い優れた人にも、狩りの必要とそれを行う場面があると言うことではないだろうか。
「一体、どんな場面で?」「どんな必要?」
となり、冒頭の「…不思議だ」が発生した訳である。
鷹が獲物を捕食するのは、生き物としての自然な行い。
だが「鷹」を使う諺が生まれた背景にはそうした自然な活動ではなく、古くから公家や武家の間で好まれて来た鷹狩りの存在がある。
人間による鷹を使っての捕獲は娯楽であり、社交であり、スポーツ的なものでもあって「食う為の」、いのちがかたちを保つ為の活動ではない。
高い狩猟能力を発揮するだけでなく、誇り高く威厳のある猛禽とされて、人から評価を与えられて来た鷹。
「鷹は飢えても穂を摘まず」の例えは、その誇りを表したものらしいが、肉食が草食より上と言う発想は何処から来たのだろうか。
飼われながらの誇り高さ、とはどう言うものだろうか。
凡庸な親に優秀な子どもが生まれる例えである「鳶が鷹を産む」も、鷹が鳶より上と言う発想は何処から来たのだろうか。
いざの時に爪を使う狩猟の能力は、「狩る」「狩られる」場面で使われる。
人同士で、何かを狩ったり狩られたりするのはどんな時だろうか。
首を捻っていてふと「魅力を武器に」と言うフレーズが浮かんだ。
武器も良い意味で使われることが多くある。
だが、戦争についてどう思いますかと聞けば大抵の人は「良いよね!」ではなく「如何なものか」と言う反応を返すだろう。
爪、狩り、武器、戦争と意識を順に巡らせていて、不意にそれらが一つのまとまりを持って繋がった。
「!」
それについては来週記事に書かせて頂くことにする。
効かせる、辛いもの。
(2023/6/29)
《6月のふろく 凡短冊2023》
昨年ご紹介した、全母性の復活に通じるチャレンジとなる、七夕に逆に願いを叶えてみる試み。
世にはどんな願いが溢れているか願いを観察して、発見した願いを叶える用のメモ付き短冊を本年もこしらえてみました。
空に浮かんだ短冊に、叶える願いをご記入下さい。
実現へ向けた行動を通して気づかれたことや味わわれたことは、下の波間のスペースに自由にお書き頂ける様になっています。
来週の七夕に向けて、気が向かれた方は楽しみつつ試みてみられて下さい。