《空と満》
至福の感覚が開かれるにつれて、「満」とは「ギリギリいっぱいの膨満」ではなく「丁度の満ち足り」であることが腑に落ちる様になる。
「満腹」「空腹」と言った表現が使われる腹具合は、その分かり易い現れの一つと言える。
覚が深まるにつれて、食後に感じる丁度の満ち足りと共に、消化後に感じる空腹の爽快さもよりはっきりとしたものとなった。
空っぽの爽快が分からなければ、空腹感は飢えの不安や苛立ちに繋がるだろう。
人は乏しさや飢えのイメージを被せて、空っぽを嫌う。
そして逆を好む。
幼い頃から親しむ絵本の世界には山盛りの、時には食べきれない位沢山の美味しいものが、“幸福の象徴”として頻繁に登場する。
絵本は気に入れば幾度も楽しめる様に出来ている。
繰り返し読んだり聞いたりする中で、それが幸福のイメージとして強く印象付けられることは想像に難くない。
勿論、色んな「やり過ぎ」を幼少期から青春期にかけて楽しむのは人生における大きな学びの一つなので、これはこれで構わないのだ。
只、御神体にとっての適度と、不覚分割意識の「余は満足じゃ」との間に大きな隔たりが生まれていることには、成長と共に気づく必要がある。
御神体が多過ぎる食べ物に疲弊していると感じた時が気づきのチャンスなのだが、大抵の人はそれを
「もう若くないんだな」
と、片付ける。
そしてちょっと物悲しい気分で己を憐れんでみたりする。
分割意識が不覚のまま我に沿ったやりたい放題をして来たと認める位なら、
加齢列車に乗り込んで衰えツアーに嘆いたり文句言ったりしながら参加してる方が楽。
そう言うことなら、それはそれで一つの表現なので良いも悪いも勿論ない。
だが、満の誤解を解く意志を自ら発動しない限り、そこに関して何の気づきも起きない。
自由意志が全てだからだ。
絵本の世界に話を戻すと、どっさりの中には色んなものを並べて多種多様な要素を見る歓びを提供するものもある。
このどっさりには「どれにする?」と決める自由の楽しみがある。
沢山作ったものを割ってみんなに振る舞う歓びを提供するものもある。
話が少し逸れるが、有名なロングセラー作品に描かれたこの絵を見た時、初めは「それ程多量とも言えないのか」と感じていた。
彼らの名前は青い帽子の方が“ぐり”で、赤い帽子の方が“ぐら”。
説明によれば双子の野ネズミであるそうだ。
世界のネズミを比べた時に、種類によってその大きさにどれだけ差が出るのかは知らないが、彼らに扱える鍋で作るなら大した量のカステラではないだろう。
その様に踏んで「さして多量ではない」としたのだ。
だが、とんでもないことだった。
こちらの絵は先程書いた「みんなに振る舞う歓び」を楽しむものだが、ぐりとぐらの大きさをじっくりとご観察頂きたい。
横に居る子ウサギとも、何なら画面左手のクマともどっこいどっこいの大きさ。
子グマだったとして、それと張るサイズ感のネズミなど見たことがない。
ぐらの横に、カエルを挟んで並んでいるライオンと比べても、彼らは実際のライオンとネズミ程、大きさに差がない。
ゾウからカタツムリまで、みんなに振る舞えるカステラは相当の量と言える。
眺めている内に「何だろう、物の大きさに関して感覚が曖昧になりそうだ」と感じた。
もしかしたら、「大は大と限らず、小は小と限らぬ」みたいな哲学的な教えでも含んでいるのかも知れない。
ノリでやった風なシンプルさを水面下の徹底した努力で作る。
絵本には驚く程の手間をかけ、意図を含んだものも多く存在する。
「しかし、デカいな」
と、“ぐりとぐらネズミ型宇宙人説”も意識に浮かんだ。
この存在達に幾らか興味が出たので、調べてみて面白いことでも分かれば又、記事の形でご報告申し上げることにする。
大分逸れた話を戻すと、たっぷりの量はみんなに振る舞う歓び、祭の歓びを鮮やかに彩る。
だが、振る舞いそして振る舞われる歓びを十分に味わうには、食べる前の惜しみない消化が必要であり、それは行動による昇華で成される。
「物心両面」と言う表現がある様に、物と心では影響する面が違う。
心を物で満たそうとする時、ズレは大きくなる。
満たされぬ心を食物で埋めようとするのもその一つと言える。
多量による満腹で埋めるのも、「量より質!」と食物の質で埋めようとするのも、物で埋めるの域を出ていない。
その前に昇華と消化。
空を嫌わず楽しむ時、自然に満たされる。
そして調和が起きる。
御神体との調和がなければ進みようがない道があるのだ。
空と満、どちらも歓び。
(2021/10/14)