《毛嫌う理由》

 

先日ふとした拍子にこんな問いが浮かんだ。

 

「そう言えば、「けぎらい」の「け」って、何だ?」

 

調べてみると「け」だった。

 

「毛嫌い」とは鳥獣が、相手の毛並みによって好き嫌いをする所から、

 

「これという理由もなく、感情的に嫌うこと。わけもなく嫌うこと。」

 

 

を意味する言葉であると言う。

 

説明を読みながら、首を傾げた。

 

謎だったからだ。

 

まず「これという理由もなく」「わけもなく」嫌う、としているが、元になったと言う鳥獣の行動に関しては「毛並み」によって好き嫌いをする、とちゃんと理由が書かれている

 

毛並みによる判断でのスキキライなど、実際は何の根拠もない

 

鳥獣の毛並みになし

 

 

そう言うことなのだろうか。だったら人だってその毛嫌いしないはずである。

 

理由が挙げてあるものを、理由のない行動を表す言葉が出来た理由にすると言う風変わりな解説もそうだが、謎はまだある。

 

鳥獣って実際どんな風に、毛並みによる好き嫌いをするのだろうか?

 

体や羽根の大きさやツヤの有無は、その生き物が個体として強いか弱いか、健康状態がどうであるかを示すバロメーターになり得る。

 

それが、繁殖に有利なポイントになるのも分かる。

 

 

只、そこに感じるのは感情的な好き嫌いではなく、逆に理性的と言える判断だ。

 

種を残す目的に相応しいものを、合理的に選ぶ。

 

様々な生き物はこの選択適応によって代替わり進化をしながら、今日まで歴史を紡いで来た。

 

もしこの歴史に「これという理由もなく、感情的に嫌うこと。わけもなく嫌うこと」が挟まっていたら、果たして続いて来れたかどうか。

 

調べている間に、良家の出であるとされる人物について「毛並みがよい」と表現する言い方の有ることが、記憶に蘇った

 

 

そこで「毛並み」を調べたら、

 

「毛がはえそろっているぐあい。毛のはえぐあい。多く、動物の毛に関して用いられる」

 

とした後に、

 

「(その動物の)品種、種類。また、その種類の質のよしあし。人間についてもいう」

 

とあり、更に

 

「 俗に、動物の血統。人間の家柄、血筋のことにもいう」

 

 

と、どんどん人間について使う場合の説明が増えて来た。

 

眺めて気づき、膝を打った。

 

やはり毛嫌い人間の感情反応について示す表現である。

 

人間の、と言うか「人と呼ぶ獣」もしくは「人の中の歪めた獣性」が起こす感情反応だ。

 

人以外の生き物の、個を超えて種として生き続けようとするシンプルな本能に、

 

全体の中で、より優れた状態で存在したいと言う欲求や、

 

全体の流れをコントロール、支配したい欲求と言った、

 

ややこしく肥大したものを搭載した結果、それぞれの生き様が醸し出す気配が、パヤパヤと毛の様になびいている。

 

その“毛”みたいなものがどう流れているか、手入れされツヤが出ているかどうかによって、相手に対し好きか嫌いかの反応が現れる。

 

おそらくは皆、己のものと似た毛に向かって集まるだろう。

 

冒頭で「そう言えば、「けぎらい」の「け」って、何だ?」となったのは、「け」の音に「気」を感じてもいたからである。

 

その通りで、毛嫌い気嫌いでもあった。

 

毛が気になるの図。

 

虚空の気ではなく、意志ある本気でもなく、表層の雰囲気

 

表皮に生える毛程の気で、人は好き嫌いをする。

 

それぞれに癖づいた毛嫌いの反応が抜けきらないのは、意識が奥に達することがないままだからだ。

 

「あんなに感じていた嫌さが無くなりました」

 

「あんなに腹が立っていたのは何だったのかと言う程です」

 

 

等、意識の奥「!」気づきを起こし、行動にも変化が現れた方々から伺うことがある。

 

そうした方達は、本来する必要があることに向けて自然とエネルギーが流れ、右往左往しなくなる。逆に、

 

「どうしてもこれが嫌いなんですよ!」

 

と言う人を観察してみると、これが嫌いな自分てこんな人!」と自分像の輪郭を際立たせる材料にしていたり、自分についての話をする為の切っ掛けとして使ったりしている。

 

毛嫌う理由は、自分好き

 

 

体毛は温度調節を初め身の安全を守る為のものとして、生えては抜けしてずっとその役割を果たして来た。

 

そんな健気な毛を、エゴの温床を作る保護システムとして利用したり、意識内に構築した“自分城”の防犯用センサーとして嫌い警報の発令に使ったりしていれば、本道から外れてどんどんややこしくなるのも当たり前。

 

毛嫌いの話無くなる人自分像への執着無くなっている。

 

執着し、喉が枯れるまで自分語りを続ける自由だって勿論あるが、その先に納得至福無いことは明らかである。

 

何の毛なしに観察しよう。

(2021/10/18)