未知()歓び》

 

世界的スポーツ祭典と感染症対策が同時進行だったカオスな夏が過ぎ、ちょっと落ち着いた感のある不覚社会

 

「コロナが終わった訳じゃないんだからさ」

 

「そうそう、まだまだ気をつけなきゃね〜」

 

一応はそう言いつつも、

 

人々の気配や顔に浮かぶ表情からは、緊張がどんどん緩んで行っている様に見える。

 

こんなのもありました。 

 

しかしこれって果たして緩みなのだろうかと、ふと気がついた

 

と言うのも、緩んでいれば意識に余裕が発生するだろうに、逆に妙な切迫感を感じたからだ。

 

「へぇ、不思議だな」

 

と、ゆるゆるし出している気配が起こす世の中のニュースや、街の雰囲気を観察してみた。

 

 

そして、あぁ成る程と膝を打った。

 

冬になったら。

政局が変わったら。

 

あれよあれよと又、厳しい我慢を要求される日々に変わって行くかも知れない。

 

それまでに、使える自由時間

 

 

そんな焦りや不安が、人々のソワソワしながら「今の内に緩んじゃっても…いいよね?」的な雰囲気に繋がっている。

 

そして、「出来ることなら慣れ親しんだノリに少しでも帰りたい」と言う、過去への猛ダッシュでもある。

 

エスカレーターの逆走みたいなもので、思いきり走っても大して進まないし、転ぶと怪我をする。

 

お勧めしない行動だが、やらずに居られない人を止めたりもしない。

 

 

人は「慌てて緩もうとすることも出来る」んだなぁと、感心した。

 

ある意味器用なんじゃないだろうか。

 

結局緩むことは出来ちゃいないが。

 

過去の名場面に帰省することは出来ないし、かつてのノリに寄生することも出来ない。

 

只、そんな風なことが出来た気になるだけである。

 

そして、物理次元に実際起こる展開から意識がどんどん乖離して行く。

 

 

不覚意識がどの様に意図しても、やったことのない動きをする方向に全体の流れは進んでいる。

 

到来する新しいモノコト受け入れてそれを味わい、更には楽しんでみること。

 

これがとても大切になる。

 

それは、多少毛色が違おうと結局好きなものだけを、しかもがっついて取りに行くのとはまるで違っている。

 

何でもするぞの自由と余裕が意識にある時、

 

 

束の間の解放感は必要がない。

 

拘束感期限付きの解放感を行ったり来たりする意識であると、

 

拘束の時には解放を意識して()

 

解放の時には拘束を意識して(あせ)

 

結局全然、居られない

 

 

切りがないのだ。

 

焦れ焦りを続けてもジリ貧になって行くだけである。

 

目に見える懐具合もさることながら、分割意識の集中力御神体のいのちエネルギーがジリ貧になる。

 

拘束感解放感のループは、力を擦り減らすことはしても何処にも人を運ばない

 

 

新しいことを始める時は、そこに未知がどれだけあるか、真っ直ぐに観察してみられること。

 

思わず震えてしまう未知があったら、

 

迷わずそこを進んで頂きたい。

 

それは進む人を、その人の愛を、より大きく広く深くする道である。

 

()を出て、(くう)を行く。

(2021/9/27)