《新陳代謝》
古い連帯が綻び始め、一人一人に自立の機会が訪れている。
自立は、歯を食い縛って何かしらの我慢と共にするものではない。
自立することそのものに歓びがある。
歓びではなく不安を感じる時、「自立して何かマズいことになったら」と、起きていない未来に意識が傾いている。
歓びではなく不満を感じる時、「連帯し影響し合えていたあの頃」に得た快感の反芻と共に、過去に意識が傾いている。
歓びを実感するには、今この瞬間を新鮮に味わうことが出来ているかが、鍵となる。
勝利の瞬間、合格の瞬間、獲得の瞬間。
こうした華々しいおまけ付きの瞬間に限らず、あらゆる瞬間は新鮮に味わうことが出来る。
味わう感覚が開かれていればいる程、意識も澄んだものとなって行く。
そして、澄んだ意識は未知の一歩を踏み出す力を生む。
新しい瞬間を味わい、歓び、行動し、又歓び、更に新しくなって行く。
存在は本来、毎瞬新生し続けている。
そこを意識が実感する様になる。
この新生の実感について、何か言葉にしてお伝えするものがあるかと意識を向けていた所、上から大変面白いことを言われた。
“感謝とは、感動による魂の新陳代謝のことである。”
成る程、言われてみりゃ確かにそうなのだと納得。
と同時に、言われた中のある表現について、「あぁ、それがそれなのかい」と着目した。
そう言えばその辺に向き合って深掘りしてなかったなと、新たな課題を頂戴した感じにもなったのである。
両手に余る程の課題を解く為に現れた、溢れ返る資料を前に、情報の交通整理に勤しんでいる只今だが来るものは来る。
首っ引きで取り組んでも頭でっかちになるので、情報整理とデータの出入力に並行して手先以外を動かすことも欠かさずに居たら、特段何かトレーニングをした訳でもないのに「体がアスリートみたいになって来ましたね」と、お言葉を頂いた。
こうした変化も又、歯を食い縛った訳でも何かしらの我慢ともに成した訳でもない。
生きていることの面白さを歓び、感謝して楽しんでいたら、自然とそうなっただけである。
世を眺めていると、人は「感謝する」としながら、感謝とちょっと違う動きをしていることも多い。
感謝とは、「有難いと感じていますよ」と示す為に微笑みを浮かべて合掌することではない。
そうした雰囲気を纏って発言や行動をすることでもない。
感謝をする時、そこには感動があり、感動がある時、そこにはこれまでにない感覚を知る、“新しさの歓び”がある。
感謝と言う新陳代謝が活発になると、当たり前に御神体は活き活きして来るし、モノコトの運びもスムーズになる。
感謝を捧げる時、本来そこに犠牲の要素はない。
何かが減った様な感じがするなら、又は何かを得ようと目論んでするなら、それは感謝とは違うものなのだ。
活き活きと新しくなろう。
(2022/5/26)