《敬老?》
「へぇ、面白いもんだなぁ」
本日は敬老の日と言うことで、2022の世間ではどんな感じになっているのかと眺めていて、気づいたことがある。
老人扱いしてくれるな
と言う人が増えている。
古老から知恵を借りるとか知識を授かると言うより、反応が速くて記憶力も判断力も鈍っていなさそうな人から教え導きを受けたい。
そんな時代に、変わって来ている。
移り変わる流れは日毎に大きく速くなっており、ゆっくりじっくり知識と経験を積んで知恵を育んで行くだけでは不十分となった。
新しい環境に適応出来る様に、間口を広くし柔軟に対応することが求められる世の中では、アップデート出来ないことは老朽を意味する。
朽ちることへの恐怖から、気持ち的に老いを受け入れられない人が増えていると言うことだろうか。
嫌だと言ったってあくまで気持ち的なものに留まるのであれば、ベルトコンベアの上を走って居る位置を変らずに保とうとしているだけのこと。
逆らって走る体力がなくなれば「アレーッ」と転んで、そのまま運ばれて行く。
目に見える状態としては「気力や体力が衰えてガックリと老け込む」感じとなるだろう。
古老の知恵に重要さがあるとした頃を老人すごいぜ時代とするなら、弱く小さくなって行く年老いた人をいずれ自分も通る道であることも含めて労り慈しみましょうねと“やってあげる感”を出す様になってからは、老人かわいい時代とでも言えるだろうか。
積み重ねて来た習慣の力がある為か現代でも結構、老人かわいい時代に合わせた行動を中年や若年の層ではしている様に見える。
電話での近況伺い、子を連れての表敬訪問、郵送や手渡しでのプレゼント。
が、当の敬われる側から、
「でもワタシはおばーちゃんじゃないからね」
そこんとこヨロシク。
の断りを入れられるパターンもままあるらしい。
やらなかったらやらなかったで恩知らずとか冷たいとか言われるかも知れないし、
やったらやったで年寄り扱いするのかと皮肉や文句を聞くことになるかも知れないとは。
現代の敬老は、敬う側にとって大分心的負担の大きいものなのだろうか。
敬老の日にかこつけておねだりをしに来るちゃっかりな子や孫だって居るかも知れないことを差し引いても、敬われる側にも心的負担はありそうだ。
己に老を認めるか否か。この決断を迫られる負担である。
「俺も、ジジイかぁ」
はやいもんだねぇ~。
と、男性の方が中年から老年への移行を結構すんなり受け入れている人が多い気がする。
おっさんとじいさんの標高差はあまりなく、緩やかなルートなのだろうか。
それとも口に出さないだけで、男の方も「老いるのは嫌~っ」な気持ちはあるのだろうか。
敬老の敬の字は、神への捧げものの「羊」と祝いに使う器を表す「口」に、動作を示す「攵」を加えて、祈りの姿を漢字にしたものだと言われている。
神扱いでも嫌なのかと、首を傾げていて
「あっ、もしかしてお供え物をされる側になることに対して敏感なのかな」
と、気づいた。
神扱いと言うより、仏扱い。
生きながらのホトケさん扱いは少々気が早い、と言うことなのかも知れない。
老を敬うのにも中々骨が折れる不覚社会。
まして祝うことは難しいだろうか。
この機会に、集中して老を祝ってみることにする。
全一に祝えぬものなし。
(2022/9/19)